Z世代の代表 作品紹介

一号とRYANAがZ世代ならではの視点でさまざまな作品を紹介します。

『電波ゆんゆん?電波系作品の手引き。これで君も毒電波使いだ!』

電波系についてならまずはこんな感じで。

 

 

「告発を行います。警告を行います。

現在、日本は、極悪非道最凶外星人によって、猛毒電波の、大量照射による洗脳が行われています。猛毒電波は、脳細胞、並びにニューロンを、破壊します。外星人の照射によって、シナプスは、1000分の一秒の間に脳内に、点滅を引き起こし、電気パルスを、形成します。100億ほどの、神経インパルスが、破壊・・・」

 

 

 

 

頭がおかしくなるので終了。

ということで今日は電波系についてだ。

このテーマが流行ったのは基本的には90年代。オカルトブームのなごりがまだ残っていて、怪しい雰囲気が立ち込めていた時代だ。

最近はあまりこの手の作品は作られないけれど、「三大電波ゲーム」と呼ばれるものについての動画が、YouTubeで100万再生を越えていたり、都市伝説系YouTuberの人気があったり、まだまだ需要はある。というか伸びていくのでは?と思ってこんな記事を作るに至った。

 

※(今回はアダルトゲームも紹介します。苦手な人はブラウザバック。R18イラストは載せません。)

 

というわけで、電波系の作品を何作か紹介していこうか。

 

 

それでは電波、照射開始。

 

 

(ゆんゆんゆんゆん)

 

今回は時代順に追って紹介。

 

新興宗教オモイデ教』 大槻ケンヂ

 

「憧れの女の子、さえない主人公、謎の新興宗教、メグマ波。」

 

妻子持ちの教師との関係から、精神を病んで学校から去ったなつみさん。しかし一月後、新興宗教オモイデ教の信者になって主人公の前に現れた。主人公は電波なお話を聞かされて、主人公も宗教同士の争いに巻き込まれていく。

電波系の流れを決定づけた名作にして、ゆがんだ青少年のコンプレックスをこれでもかというほどえぐる詳細な心理描写。電波抜きにしてもやはり傑作と言っていいでしょう。

購入するなら文庫版がおすすめ。なんと表紙はあの丸尾末広少女椿!)そして巻末には永井豪の解説が載っているのだ。電波系の金字塔。読まずに電波系を語ることはできないだろう。

 

 

 

『雫』

 

Leafビジュアルノベルの始祖にして、電波系アダルトゲームの祖」

 

狂気にあこがれる主人公。毒電波。屋上で電波を受信する少女。この辺のキーワードに興味があるならきっと楽しめるだろう。この作品には印象深いシーンが数多くあり、ストーリーと言うよりもそこを紹介したほうが分かりやすい。

世界中の人びとを殺す妄想をノートに書きこむ主人公、教室で「セ●●●」と連呼しながら自傷行為に励むクラスメイト、卒業式での乱交パーティー

そのいかにも電波というシーンが、絵の薄暗さとあいまって非常に不気味な雰囲気を醸し出している。(ただわたしがやったのはリニューアル版ですけどね。)

ちなみにこの作品でBGMを担当している折戸伸治氏はアクアプラスを退社した後、麻枝准久弥直樹樋上いたると組んであのkeyを設立する。くにうたこと鳥の詩は彼の曲である。きっと聞いたことのある人も多いだろう。

 

ja.wikipedia.org

(アダルトゲームのリンクはダメみたいなのでwiki)

 

「三大電波ゲー」

 

終ノ空』『ジサツのための101の方法』『さよならを教えて

 

令和以降、あまりに有名になってしまったこの括り。(もともと言われていたらしいけど、広まったのは令和以降かな)

私もここから電波系に興味を持ったわけですが、電波系復興のカギを握るかもしれない作品群だ。

しかし『ジサツ』に関してはプレミアムが付いていて、プレイできる環境にない。早くDL版を出して欲しいところだ。(あらすじと言うかプロットだけは見たことあるのですが、アニメ版うる星やつらの「愛とさすらいの母」に似てる?早くプレイしてみたい。)

さよならを教えて』に関してはまた別に記事を上げる予定だ。

終ノ空』は『素晴らしき日々』というリメイク?(というにはかなり別物)作品が出ている。どちらも衒学的で会話の内容が非常に不明瞭な作品ではあるが、そこを気にしなければ物語構造的に非常に面白い造りなのできっと楽しめるだろう。

 

 

 

とまあ主要なエンタメ作品はこんな感じだ。

電波系というくくりはかなり難しい。妄想と現実の区別がつかない精神病の話という大きなくくりであれば、古くは『砂男』から『カリガリ博士』、もっといくと『ドン・キホーテ』などに行き当たるだろう。

 

カリガリ博士(字幕版)

カリガリ博士(字幕版)

  • コンラート・ファイト
Amazon

 

(不気味なもの。狂気といえばやはりホフマン。『くるみ割り人形』のひとじゃないんだよ。)

 

 

ただ狭い意味での電波系の元ネタをたどっていくと、日本ではガロなどのサブカル系の漫画雑誌に行き着くみたいだ。私はガロ系に関して、特に80年代に関しては不勉強なのであまり詳しくはここで語ることができない。(ごめんなさい)

世界でもいろいろとあるはず(アルミホイルハット成立の由来とか)なのでこれから調べていきたいと思う。

(詳しい人がいたら教えてください)

 

毒電波という言葉の由来はこちら↓

https://www.1101.com/editor/2008-01-29.html

 

 

さて、まだまだ続きます。ここまで00年代初頭までの電波系だったのだが、次はその後の電波系だ。主戦場はアダルトゲームからライトノベルに移り、アングラ臭が抜けたさわやかな青春物としてのお話に電波と言うものが絡んでくる。ポスト電波系とも呼べるそんな作品群。

なんとあの『とらドラ!』の竹宮ゆゆこ氏だって、ポスト電波系のラブコメを書いているのだ。

 

 

 

  ではでは、照射

 

(ゆんゆんゆんゆん)

 

 

『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』 田中ロミオ

 

中二病系ヒロイン、スクールカースト系ラブコメの祖」

 

全一巻のライトノベルにおいて、これほどの完成度、そして影響力を持っている作品はない。そう断言できるほど優れた作品である。教室の中で繰り広げられるスクールカーストと呼ばれる格差社会、いじめ問題、邪気眼キャラなどを2008年の時点で取り入れていることはやはり注目に値する。

正直これを電波と言っていいのかは少し疑問が残るものではあるが、先ほどの『オモイデ教』でも『雫』でも示されている「日常から抜け出すために非凡にあこがれる少年・少女」というキャラクター。それは漫画やアニメ、小説、ゲームなどの読者並びにプレイヤーの分身であり、影響を受けた我々は現実世界において、オカルティズム、邪気眼、電波などに救いを求める場合がある。それがいわゆる中二病ネットスラングとしての)であり、本作のテーマでもある。現実と虚構どちらが正しいかは明白だが、なぜ人は虚構やロマンを、電波を求めるのか、きっと『AURA』を読めば少しはスッキリとするはずだ。

 

 

 

電波女と青春男入間人間

 

「宇宙人に救いを求めた少女と、ロマンチックだけど現実主義者な主人公」

 

これも有名な作品だ。アニメ版はシャフトだし(当時はすごかったらしい)、opは神聖かまってちゃん(vocalは別)。何と言っても厳しいライトノベル界で流行りのジャンルでもないのに何作もヒットを飛ばす超人、入間人間原作だ。

あらすじは『AURA』に似ている。虚構の世界に行ってしまったヒロインを主人公が現実に引き戻そうというもの。ただ『AURA』よりもずっとやさしい世界だ。

面白いのは宇宙と深海という対立。主人公は深海マニアなのだが、宇宙よりも確実に生物がいるし、結果が返ってくるからという理由。もちろん深海調査も大変なものではあるが、ほぼ0パーセント(ここでほぼなんて言葉を使うのはわたしが宇宙人を信じている証拠)であるロマンはやはり割に合わない。現実的なロマンを選ぶ主人公と宇宙人にあこがれるヒロインが対照的に描かれ、ヒロインも現実と向かい合っていく。

ただしこの世界、本当に宇宙人がいる世界であることがなんとなく明かされたりする。かなりゆるい世界観だ。そして青春ものとして、エンタメとして非常に楽しい作品であることは間違いない。社会不適合者(宇宙人)というテーマも脱社会的であるところも我々に染み渡る素晴らしいところだ。一度否定されたロマンがまた復活する。これが10年代以降の虚構との向き合いかたなのだろう。

 

 

 

というわけで電波系について語った。

青春のコンプレックスと電波系というものは相性がいいらしく、そんな作品を中心に紹介してみた。

 

私が触れたことのある作品はこんなところだけど、きっと世の中にはもっといろいろとあるはずだ。

ぜひこの記事を読んで電波の使い手になって、新たな電波系を開拓していって欲しい。

 

 それでは

 

(ゆんゆんゆんゆん)

 

百合初心者による、百合初心者のための、百合ガイド

みなさんごきげんよう

今回はなんとなくそんな気分ですから、百合こころもとない方向けの記事を執筆したいと思いますわ。

(山手言葉はリアルじゃほとんど絶滅していますね。ネイティブじゃないのでこんな素敵なツールで自動翻訳しましたわ。)

https://www2.kokugakuin.ac.jp/nihongo/ojyo.html

 

というわけで普通に戻りましょう。今回は百合の記事なので『トップガン』と同じ雰囲気では紹介できないと思ったのでこんな出だし。

さてさて、百合初心者である私がおすすめの百合作品を紹介していきましょうか。

 

百合と呼ばれる作品紹介 

 

では早速紹介します。ジャンルごとで紹介します。

  • GL(ガールズラブ)(本格派だとか。これこそが本来の意味であるとか。)

まず誰もが認める純愛系の百合作品。

 

やがて君になる』 仲谷鳰

「人を好きになることがない少女と、自分自身が嫌いなために他人の好意を受け入れられない少女の物語。」

 

やっぱりこれですね。百合と言えばおそらくこの作品を推すひとが一番多いのでしょう。絵も可愛いですし、恋愛ものとしてだけでなく青春ものとしても古今東西の作品の中でも最も素晴らしい作品の一つなのではないでしょうか。

恋愛不信、自己嫌悪、自己実現。青少年のリアルな悩みが巧みな心理描写で描かれていて、読んでいてかなり共感してしまいます。(日本だけでなく海外評価も高い)

個人的な見解を言わせてもらうと、この作品はズバリ恋愛漫画への宣戦布告ですね。一巻の最初のページからラブストーリーやラブソングへの不信が語られますし。

愛を感じられない少女二人はどのようにして、愛を取り戻していくのか。結末はぜひ自分の目で確かめてみてください。

 

 

 

GIRL FRIENDS』 森永みるく

「本当に王道、これ一本でGLの大体の流れがわかる!」

 

王道です。迷いがないほど王道。最初の一冊はこれを。

この五巻にすべてが詰まっていると言っても過言ではないです。女の子が女の子を好きになることによる葛藤、すれ違い、そしてその後、すべてがバランスよく収まっています。ストーリーはおとなしめの女の子が、ギャル系の女の子に声をかけられて、一緒に遊ぶようになって、そして...という内容です。

全5巻と短いですが、侮ることなかれ。

 

 

(こっちもいい)

 

安達としまむら』 入間人間著 のん/イラスト

「脱社会的?不適合者二人が送るゆるくてリアルな二人の関係」

ライトノベルです。表向きは器用だけど、薄っぺらな人間関係に息苦しさを感じているしまむらと、孤空を貫く美少女安達の関係が少しずつ変わっていくというお話。基本的には二人のモノローグ形式で進んでいくお話なのですが、安達かしまむらのどちらかに感情移入できること間違いなし。(安達の自分の中の激情に振り回される様子、冷めていて、でもいろいろと要求が細かいしまむらの面倒くささを楽しむ作品!)

個人的に『あだしま』は大好きな作品でいろいろと魅力も多いのですが、一つ上げるとしたら繊細で微妙な心の揺れ動きを表現するモノローグですね。お気に入りを載せておきます。

「どこまでも共にながれていくほど、強い関係は滅多にない。運命と言う川に長く浸れば、絆もふやけてちぎれていく。」[1]

 

 

もちろんこのほかにも沢山名作はあります。『citrus』とか『2DK、Gペン、目覚まし時計。』とか、ほかにもいろいろ。素晴らしい作品は数え切れないですね。

 

  • エス(女学校物の親愛を描くジャンル、ハイソで優雅なお嬢様方の親密な関係)

続いてはエス(シスターのS)。女学校ものです。

 

マリア様がみてる』 今野緒雪著 ひびき玲音/イラスト

「説明不要!女学園を舞台に女子高生同士の親愛を描いた超大ヒット作」

 

おそらく百合と聞いてこの作品を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。コバルト文庫発のこの作品は少女小説。最初は百合というコンセプトで始まったわけではないそうですが、今では百合作品の金字塔ですね。

内容は聖リディアン女学園の生徒会をメインに様々な学校行事などをこなし、各キャラクターのトラウマなどを解決していくというものですが、この作品の魅力は学院内の独特のルールにあると言ってもいいと思います。

まずスールー制度。先輩と後輩が「姉妹」になる制度のことです。先輩が後輩にロザリオを送ることで関係は成立し、「姉妹」は学園内で特別な関係であるとみなされます。

そして山百合会リリアン女学園の生徒会で、3年生からその「妹」、「妹」の「妹」で構成されています。そして山百合会役員は薔薇(ロサ)と呼ばれ学園内では尊敬のまなざしで見られるということです。

とまあこんな風にエレガントな作品でありまして、お嬢様の雰囲気を味わいたい。伝統的な女学校物に興味があるという人はぜひ触れてみましょう。

 

(この巻が一番好き)

 

青い花』 志村貴子

「2つの女子高を舞台としたエスと本格派をつなぐ名作」

 

漫画家の描写力ランキングというものを私の中でつけたら、志村貴子の右に出る人はいない。そう断言できるくらい詩的な表現がてんこ盛りの漫画『青い花』です。

この作品のテーマは『やが君』と同じく、愛とは何か。

思春期の少女たちのコンプレックスやゆがんだ欲望と向き合って、一人一人がそれぞれの道を進んでいく、そんなストーリー。

少しマニアックな話をすると、この作品のサブタイトルは文学作品からつけられているのですが、第一話が『花物語』、最終話が『青い花』なんですね。

花物語』というのは吉屋信子(1896‐1973)による少女小説エスと言うジャンルの原典的な作品です。対して『青い花』はノヴァーリス(1772‐1801)による青春小説(ビルドゥングスロマン)で未完ではあるのですが、「青い花」に象徴される真実を青年が追い求めるという話です。

ここからは私の邪推ですが、おそらく志村貴子は『花物語』から『青い花』に至る過程、つまりエス(疑似姉妹、疑似恋愛)から真実の愛に至る過程をこの漫画で描きたかったのではないでしょうか。これについてはまた詳しく記事を上げたいと思っております。

 

 

 

エスは伝統的なジャンルで遡ると『花物語』、つまり大正時代まで遡ることができます。エスの雰囲気が好き、ハイソさ、エレガントさに浸りたいんだって人はぜひエスと呼ばれる作品を深堀していってくださいね。

 

  • ゆるいゆり (コメディ、萌えと百合的なベクトルの融合)

ゆるゆり』以降急速に拡大した新ジャンルですね。百合姫やきららからも数多く出ていて勢いがあります。

 

ゆるゆり』 なもり著

「こんな百合もあり?新時代を築いたゆるいゆり」

 

言わずと知れた超有名作品ですね。「ごらく部」という何をするのかよくわからない部活を中心に女子校で繰り広げられるコメディ。個性豊かなキャラクターたちが織りなすゆるいギャグ展開はいわゆる「空気系」だとか「きらら系」などに近いでしょう。しかし冷静に見てみると思ったよりも人間関係は複雑で(ひまわりと櫻子以外は基本片思い?)、ゆるいと言ってもしっかり百合でキスシーンがあったりします。

 

 

桜trick』 タチ著 

「女の子同士のキスが見たい人におすすめ」

 

アニメのOPを見てください。キスです。キスが見たいならコレ。余計な言葉はいりません。

 

3.百合風 (明確に百合と断言できないけれど、百合っぽいと思わせる作品)

明確に恋愛感情のベクトルはないけれど、でも確かに愛のベクトルはある。そんな作品。

 

きんいろモザイク』 原結衣著

きらら系でも特に人気な作品の一つ。主人公のおとぼけと切れ味のあるギャグ、そして洗練されたテンポ。漫画、アニメ共に傑作ですが、百合としても楽しむことができる作品です。

幼馴染百合としての陽子と綾の関係もさることながら、やっぱりアリスと忍でしょう。(主人公とヒロイン。日本人とイギリス人ですね)この作品はアリスが忍に会うためにイギリスから留学してくるところから始まります。つまり百合的な親愛?のベクトルがこの作品の根幹と言ってもいいです。

「きらら系は百合じゃないでしょ」と言う人もぜひ見て欲しい作品です。

 

 

ご注文はうさぎですか?』 Koi著

きらら系の中でも最も人気がある作品の一つである「ごちうさ」。独特のテンポ感とファンダムのノリから倦厭されがちですが、かなり画期的なんですよこの作品は。

まずメインキャラクターの関係が非常に微妙なバランスにて成り立っているところですね。5人のメインキャラは年齢も学校もバイト先もバラバラ。一人一人の関係を見ると、友達の幼馴染だったり、友達のバイト先の先輩だったりという関係。5人一緒にいる外的要因がない集団なのです。しかし作者の手腕というかキャラクター描写で5人が一緒にいる説得力が描かれている。そうした雰囲気から百合的な要素を感じとる。ある意味上級者向けかもしれないですね。

 

 

 

4.百合には興味ないけど、なにか別の要素があれば百合作品に触れてみたいよという人へ

百合+○○だとか、○○+百合だとかそういうジャンル。『アナ雪』などもここですね。

 

少女革命ウテナ

 

監督の幾原邦彦や漫画家のさいとうちほなどの政策集団ビーパパスによるアニメ作品。アヴァンギャルドな映像と難解なシナリオ、メッセージ性の強さなどが高く評価されていて、アニメ史に残る名作として語り継がれる作品といなっております。

基本的にはシンデレラストーリー的な童話を意識した作品ですが、主人公のウテナは女の子でありながら王子様なろうとしているというところに本作の魅力が詰まっています。童話上の女性の3つの役割である魔女、姫、母とは違ったスタイルで描かれるウテナというキャラクター。その中性的な魅力は今見ても色あせません。

 

 

 

『ことのはアムリラート』

 

『推しのラブより恋のラブ』と同じ(姉妹?)ブランドが送る百合ADV。

本作の最大の特徴はヒロインがエスペラント語を話すということ。

?となる人も多いでしょう。

本作は異世界に飛ばされた少女凛が言葉の通じない少女ルカと信頼関係を築いていくというものなのです。そして主人公である凛は現地の言葉である「ユリアーモ」(エスペラント語)を学びながら関係を深めていくのですが、最初はルカが何を言っているのかさっぱりわかりません。(音声も文章もエスペラント語なのでプレイヤーもわからない。)そしてだんだん言語を理解していくにつれ、意思疎通ができるようになっていくわけですが、なんと本作作中に勉強モードと言うものがあり、凛と一緒にユリアーモを学ぶことができるんです。そしてある程度エスペラント語を習得してから、二週目を行うと二度おいしい。そんなゲームです。

 

 

マレフィセント

『眠れる森の美女』のヴィランであるマレフィセントを主人公に据え、オーロラ姫とマレフィセントの愛を描く映画。

ネタバレになるのであまり詳しくは書けませんが、見て絶対に後悔はしないはずです。まさかマレフィセントとオーロラをこんな関係にするとは...

 

終わりに

「結局百合ってなに?」とか「どこからが百合なんでしょうか?」という人も多いと思いますし、興味はあっても独特の雰囲気にあてられて入りにくいひとも多いはずです。

百合は確かに不明瞭で分かりづらいらいジャンル。

 

恋愛だけが百合なのか。親愛友愛は百合じゃないのか?では性愛は?

 

一応参考になりそうなものを挙げておきます。『ユリ熊嵐 公式ガイドブック』において語られた百合漫画家の森島明子氏の定義です。

「「ユリはこうだ」というのも、十人いれば十通りの定義があります。私自身は単純に女性同士の恋や愛を描いて、「それがユリかどうかを判断するのは読者さんだ」とずっと言ってるんですけど、かなりセクシャルなものもあれば、本当に淡いあいまいなものもあります。「夫婦に近いけれど友だち」とか、母子関係や姉妹関係もユリと受け取られるときもあれば、違うときもある。」[2]

 

百合とは何か。結局十人十色ってことですね。

熟練の百合ソムリエだって、それぞれいうことが違うだろうし、定義論争には争いがつきものなので(SF・・・)今紹介した区分けは個人的な区分けに過ぎないことをここで言っておきましょう。

 

まだ百合についてあんま知らないけど、興味あるよって人とか、興味はないけど知的好奇心はあるだとか、そんな人がこの記事を読んで作品を見たり読んだりしてくれればうれしいです。そしていずれは・・・めざせユリトピア!!

 


www.youtube.com

[1] 入間人間著(2015)『安達としまむら 4』株式会社KADOKAWA

[2]ユリ熊嵐 公式完全ガイドブック』p123

FacebookがMetaに変わる時 現実を見失った我々はいかに生きるべきなのか。(2)

2.デジタルからメタへ リアリティの在りかを求めて

 

gzdaihyoryana.hatenablog.com

 

 

「デジタル庁は、デジタル社会形成の司令塔として、未来志向のDX(デジタル・トランスフォーメーション)を大胆に推進し、デジタル時代の官民のインフラを今後5年で一気呵成に作り上げることを目指します。

徹底的な国民目線でのサービス創出やデータ資源の利活用、社会全体のDXの推進を通じ、全ての国民にデジタル化の恩恵が行き渡る社会を実現すべく、取組を進めてまります。」

(デジタル庁ホームページ 組織情報 デジタル庁の概要より

https://www.digital.go.jp/about/

 

 

2021年、世界的なデジタル化の遅れを取り戻すべく、我が国に新たな省庁が誕生した。かくしてその名は・・・もちろんデジタル庁である。

果たして我が国のアナクロニズムにまみれた組織を粉砕し、現金、手書き、印鑑、FAXのアナログ四天王を打倒して、ついに夢のように快適で先進的な日本へと生まれ変わることができるのか?そして具体的にどのように変化するのか?NTTがGAFAMに並ぶ時代が(来るわけないでしょ)来るのか?ゲームの技術がついに日本を取り戻すのか?
などということはやはりどうでもいいので、ここではなくよそをあたってもらおう。

もちろん紙媒体などのアナログメディアの需要は日本の後進性など関係なく減少しているし、デジタル化と言うのは早いか遅いかの話であっていずれは必ずやってくる未来なのであろう。しかし私はノストラダムスとして振る舞うつもりなどはないし、ここでは基本的に過去の話をしたい。

問題はデジタル化によって我々になにが起こるか。精神的に。それが重要。

 

 

というわけで第二回では「デジタルとはなにか?」について語ろうかなと思いまーす。

 

前回のおさらいとして、人類の科学技術は実感として「現実」に敗北したということを思い出していただこう。そして我々人類に残された進化の道というものがコンピューターの発展に裏打ちされた情報分野であったということを念頭に今回のお話を始めよう。

というワケでコンピューターやデジタルについてなのだが・・・

そもそもコンピューターってなにか、アナログとデジタルってなにが違うのかということをみなさんご存じですかね・・・

意外と知らないんじゃないですかね。そうでしょう。

我々Z世代にもなじみ深いあのアナログ放送から地デジへの完全移行の時にも

「何が変わったんだ?」

「テレビがきれいに映るようになった。これぞデジタル」

「テレビが薄くなったのがデジタルじゃ」

「なんか画面比率が広くなったよね」

みたいな感想をもった人も多いはず。中学の夏休み。テレビを見ていたわたしもたしかにそんな認識であったのであまり人のことは言えないのであるが。

とはいえ結局デジタルと言うものが何なのか。それは(もちろんご存じの方も多いでしょうが)数字、二進法、数学と言ったものである。

アナログとデジタルの違いは、連続性を保ったまま転写するのがアナログ、情報を極小さく分割して整理した情報にしたものがデジタルで、分かりやすい例で言うとレコードとCD(今ではもう音楽を聴く媒体ではないCD。しかし参考書などにはいまだに付属しているため、わたしたちよりも若い人たちでもCDは使うそうです。)の差だ。

レコードでは音の振動をそのまま溝に刻み込んでいるのに対してCDは一秒を44000回に分割し、音を数字のパターンとして記憶して出力するということである。

そして画面について、ピクセルだとかフルHDだとかを聞いたことあるだろうか。

ピクセルとはパックマンの出てくるあの微妙な映画ではない。もちろんスマホでもない。

 

 

ピクセルとは画素と言われるもので、小さな正方形である。(なんか違う場合もあるらしいよ。詳しくは専門書をよんでくだされ)大体画面にはフルHD(1920×1080)のように個数が決まっていて、その正方形は16,777,216色の色に変化する。この小さな正方形の集まりが我々の使っている電子機器の画面をモザイクアートと同じ原理で表しているのである。(つまりデジタル画の原理は極度に整然とした抽象画と同じ。ロシアアヴァンギャルドで有名なガジミール・マレーヴィチは「黒い四角」とかいう、本当にそのまま黒い四角系の作品を発表しているけど、これはきっと予言者マレーヴィチピクセルを予知したものに違いない。)

Malevich.black-square.jpg

 

ja.wikipedia.org

 

(素人にはとても分かりやすい本。)

とまあこんな風に超超超基本的なデジタルについてのお話であったのだが、ここで私が言いたいことは、デジタルは「現実」ではないという、なんとまああまりに当たり前のクソほども面白くもない結論である。

もちろん実際に製品を開発したり、中で行われている処理というものは現実的な出来事であるのだが、デジタルとして我々の目や耳に届く情報、つまりは画面情報や音楽、音声。すべて無限につらなる「現実」を抽象化したモザイクなのである。

デジタル化とはつまり「現実」の偶然性から逃れ、整然とした世界を作り上げること、つまりは技術的な「現実」逃避(ここでの「現実」は現実社会という意味ではないよ。)なのである。そして我々はそのことをしっかりと実感しているということだ。

「現実」という言葉には沢山の対義語がある。理想、夢、妄想などなど近代以降様々なユートピアを「現実」という言葉でこき下ろしてきたわけなのだが、デジタル化が進む中新たな概念が「現実」という言葉の対立として置かれるようになった。

そうそれがネットである。(ネットと現実という言葉の対立はゴロがあまりよろしくないので、「リアル」という言葉のほうがよく用いられる。)

「ネットと現実のギャップ」だとか「ネットばかり見ていないで現実を見ろ」だとか割とよく聞くフレーズなのだが、考えてみればおかしいものなのである。ネットだろうが抽象化された情報の向こう側には他人がいるわけであり、その中でコミュニケーションが成立、もしくは破綻していようが人間関係なのには間違いがないわけで、それを「現実」と対立させ低位に置くというのは変な話だ。

そしてこの無意識的な実感である現実>ネット、デジタルと言う感覚とデジタル化社会という矛盾は我々の認識に非常に興味深いギャップを与え、我々の中に興味深い意識構造を生み出したのではないか私は考えている。

それはそう。「メタ化」という視点だ。

 

 

 

(くぅ~疲れました。ついに到達しました。いやほんとに長いよ。なぜか「メタ」についての話をするのに50sSFの話からはじめているし。

こんな前書きですが、このブログの目的はメディア史でも技術論でも社会学でもなんでもないです。

作品紹介ブログです。このクソ長前書きが終わったらメタフィクションを中心に作品紹介を行います。小説、思想、映画、漫画、アニメ、ゲーム、美術、音楽からどんな作品でも私がいいなと思ったものをテーマごとに紹介しちゃいますったらしちゃいます。)

 

冒頭でも触れたFacebookの社名変更。突然の私Metaって名前になります宣言。なぜFacebookGAFAの座をFANZAに明け渡してまでメタバースに力を入れようとしているのか。その答えはもちろん投資を集めるため、でもあるだろうが私には先ほどから指摘しているデジタル化の推進と現実と比較してデジタルが低位であるというコンプレックス、そして「現実」において技術発展を行うことがあまりに難しいということが背景にあるのではないかと思う。

ムーアの法則は最近破綻したと聞くが、デジタル化が進めば確かにデジタルは「現実」に近づいていく。人間の五感ではわからないほど現象を分割し、科学的には現実と見まがうようなものになるだろう。しかし実感として我々はデジタルを、抽象画を現実とはみなさない。そのためデジタルはいつまでも現実になることはない。

しかし現代人が直面する問題はそれだけではない。我々はそもそも「現実」に絶望しているのだ。未来を見ても美しき未来どころか、サイバーパンクすら到来しそうにない。(それを察知したSF界隈は80sごろからは懐古的な技術を夢想する過去改変的な未来、スチームパンクが現れたよ。FFシリーズなどはそれの影響が強いんじゃないかな。【未プレイ】)

 

現実もデジタルにもユートピアはない。どこに行っても未来はない。そしてそれをより高次の視点で解決しようというものが「メタ」なのである。

 

 

 

メタ(Meta)とは語源的にはアリストテレス形而上学(Metaphysics)というところに行き着く。由緒正しき言葉であり、やはり哲学の言葉なので解説が難しい。

この言葉の使い方はアリストテレスデカルト、カント、ハイデガーなどなどそれぞれ異なるであろうし、おそらく多くの哲学専攻の方に突っ込まれることを承知でいうが、形而上学とは究極の根拠、実在している存在から超越した高次なものについての学とでもいおうか。

 

 

誤解がたくさん含まれるだろうが、簡単に言えば対象を外側からみることである。

例えば私の大嫌いな言葉であるメタ認知(えっ。嫌いなの?→詳しくは自己紹介へ)であれば自身の自我を外側から見ることであるし、私の大好きなメタフィクションなら物語世界の外側である観測者われわれを含むフィクションのことだ。

そして肝心のメタバースだが、Metaとverseのカバン語だ。

つまりは外側からみたラップのフックのリリック。ギミックたっぷりにフィニッシュ。客側からみたらミミックであり。ヒップホップミュージシャンのスピリッツとしてMCの必殺技として伝授されるスタイリッシュな大技・メタフィジックである・・・わけはない。

これはユニバース(universeマルチバース(multi-verse)のように宇宙を意味するバースだ。マルチバースの視点では宇宙は一つではないということで、uniが取り去られてしまったが、このように語源的なイメージを考えるなら、メタバースというのは超越的に宇宙(そしてこれはおそらくデジタルな宇宙こと仮想世界)を捉えるということなのだろうか。そこからメタバースと言うのは仮想であることを超越的な現実感で自覚しながら、仮想空間を肯定するというスタイルに思える。

デジタル空間をメタ的に捉えることにより、非現実ですよという批判的自覚を持ち、現実>デジタルというコンプレックスを解消しながらも「仮想ですがなにか?」「仮想と知っててここを選んでんだよ。」という一種の開き直りを見せ、デジタルを肯定する。

これが令和のニュースタンダードなのか。それとも失敗に終わるのか。それは現時点では全くの未知数だが、「現実」に絶望し、デジタルに現実を感じられない我々にとってはそうした開き直りがただ唯一のものにも思える。

そしてそれは科学技術のみではない。(そしてこれが本ブログの問題意識であります。)

現実を喪失した我々は常にメタ化という開き直りにてナイーブな心を守っている。それは様々な価値観が群雄割拠し、それぞれの欠点が開けっぴろげにさらされている現代において、やはり根源の根源たる形而上学への回帰がやはり唯一の道だからなのか。ニヒリズムに効く処方箋はメタ化しかないのか、神がいるかどうか、人生を賭けた賭けをする時代は終わったのか。(パスカルさんパンセ―!!)これから作品紹介をしていくわけだが、そんな作品に触れたり思い出したりしながらそれぞれの答えが見つかってくれればうれしいなと思う。

 

 

(徹底的なメタ化の視点を持ったクリエイターと言えば?日本人ならやっぱり押井守を挙げる人は多いんじゃないかな?戦後世代の現実感のなさとバブルという幻影。夢と現実。身体と機械、魂。やっぱ押井は偉大!だけど00年代以降、最もラジカルに突き詰めた人物は田中ロミオなのではないかと言う気がする。)

FacebookがMetaに変わる時 現実を見失った我々はいかに生きるべきなのか。(1)

 

インターネットの世界を牛耳るGAFAという企業群がある(あった)のはみなさんご存じの通りだろう。世界の時価総額の上位を独占し、最先端の技術をもつ会社たちだ。その中でも世界の新興SNS会社を育つ前に買収しまくり、世界中の個人情報を手に入れたFacebookだが、2021に衝撃のニュースが舞い降りた。なんと社名をMetaとかいうわけわからん名前に変えるというのである。

え?メタって何?あっはいジョジョですねはい。

いやいやそんなことより自己啓発本や怪しいジャーナリストが吹聴して普及させた、せっかくのGAFAというまとまりはどうするのだろうか?

今更Mをつけけたってその立ち位置は埋まっているじゃないか。GMARCHのGみたいにMにはもうマイクロソフトという老舗が定着しているのだ。それならいっそ空位になったFは日本のIT企業代表DMMことFANZAに乗り換えていく方向でいこうか。

 

 

(なんだこの本・・・【未読】)

まあ冗談はここまでにしておこう。

このことが「新たなビジネスチャンスに成りえるのか」だとか「メタバースによって世界はどう変化するのか」だとかがきっと生産的で実践的なみなさんの関心だろう。先行き不透明な未来に対してそれらしいことを説明されれば安心できるし、実際これを金持ちが行えば現実に先んじて株価は上昇して未来の可能性をすこし操ることができる。なんといっても金になる。なるほどどんな時代でも予言者が求められるのも頷ける。

そしてそんな議論をここでする気はまったくないということをここで明言しておくとしよう。金になる議論に興味は・・・ないこともないが不得手なのでしたくない。

ここで私はメタという概念について話したい。そして科学「技術」がいかにして「現実」から乖離してリアリティの世界へと移行するのかそういったところについて関心があるのだ。

我々は「現実」に絶望している。そしてこれは日本と言う国が衰退国であるからだとか、陰気な人間だからとかそういう話ではない。そしてここで扱う科学技術の話は実践の話でなく、人が共感する物語の話である。

 

1.美しき未来 


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(「美しき未来」。80年代。ソビエト連邦で公開された映画『未来からの来訪者』の主題歌。ご存じの通り、公開から10年も経たないうちにソビエトは解体される。なんとも皮肉な曲だ。)

20世紀中盤の話をしようか。私はZ世代の人間であるから、その時代は親も生まれていないような時代である。(例外的にわたしたちの両親は生まれています。しかしそれは統計学的例外なのだから生まれていないということ。それが現代社会なんですね。)

二回の世界大戦で進歩史観の破綻を味わい、ヨーロッパの文化的なエリートからは未来にユートピアを夢想するような幼稚な思想は消え去っている時代。しかし世界的には、科学技術の界隈ではどうだろうか。「ラッセル=アインシュタイン宣言」みたいに核の廃絶を目指した動きがあるにはあるが、時は冷戦、核開発競争の時代である。スプートニク成層圏を飛び出して、その数十年後には月にまで人間は飛び立つ。その進歩の裏には時限爆弾的な人類の破滅を促進するものなのだけれど、科学技術によるユートピアの実現は今より素朴に(こんな世の中なのに、そんなことを信じることができる人は本当に才能がある。ほんとにすごいよ。あっぱれ!)信じられていたに違いない。そうした文化的な背景から生まれるのが英米圏のSFにおける極端さだ。この時代のSFでは破滅OR進歩がよく描かれた。

そして破滅というものも現実感のないユートピア的なものなのであるとの指摘もあり、なんとまあお気楽な時代だ。

宇宙開発競争が盛んにおこなわれていた時代なので、人々の宇宙への想像力は膨らんでいく一方だったようだ。そしていずれは人類が地球を飛び出し、高度な知的生命体に出会い進化するだとか、広大な宇宙で星間戦争が繰り広げられるだとか、星間で亜光速飛行をした結果地球では体感の数十倍時間がたっていたなどという物語が生産される。いわゆるスペオペが科学的に消費された。実現するかもしれないという空気だっただろう。だからこそ2001年には木星に旅立つなどと言う映画が説得力をもつわけだ。

 

 

この時代の科学技術への信頼は厚い。日本では「もはや戦後ではない」と叫ばれた、1957年にはアメリカではある本が出版される。偉大なSF作家ロバート・ハインラインが描く近未来SF『夏への扉』だ。素朴な科学「技術」への信頼溢れる、素晴らしきエンターテインメント作品だ。復讐ものとして痛快なストーリー展開やかわいい猫、メインヒロインが・・・であるようなお気楽さももちろん魅力だけれど、ここで強調したいのは発明品たちである。今となっては大昔である西暦1970年や2000年であるが、当時はそこが未来の世界として描かれ、家事用ロボット「文化女中器」やら、窓ふきロボット「窓拭きウィリィ」が登場する。なんというか愛嬌のある発明品たちで、実用性だけでなくロマンがある。

 

 

ロボットということで、少し別の視点に立ってみようか。最も偉大なSF作家アイザック・アシモフ。ロボット工学三原則はとても有名だが、その原点の作品を知る人は現代では少ないかもしれない。『われはロボット』という作品は…めんどうくさいので詳細は割愛するが、人型のロボットが普及している世界の事件を描くお話だ。そもそもロボットというのはスラブ語系(ロシア語だと働く=[работать(rabotat')]だが、チェコ語はわからん。少数民族の言語を軽視するつもりではないのだが不勉強なのでとりあえずロシア語だ)語源の言葉でカレルチャペックが作った概念だ。「働くこと」を冠したその機械は我々がしなくてはならない仕事を手伝う、もしくは肩代わりしてくれる存在だ。人型ロボットが町を歩きまわり我々と共に仕事する。そんな物語もこの時代に沢山生まれてきた。

 

 

 

 

我々人類の技術と言うものは20世紀中盤までは現実世界のものであり、体感できるものであった。だから進歩も実感的に予測される。数字上のスペックなど見る必要なぞない。乗り物であれば今よりも速く。いずれ車は空を飛ぶだろう。宇宙船は成層圏を超えることができた。月に到達した。旅人はゴールデンレコードを持って太陽系を飛び去った。非常にわかりやすい。

そして身近な我々の社会に現れるはずだった技術は、我々の身近な仕事の肩代わりをしてくれるロボットだ。洗濯器が洗濯板を駆逐したのだから、包丁や雑巾だって機械になるはずである。そして家事やら窓ふきなど現実のこまごまとした仕事を勝手にこなしてくれる。最終的にはそれは人型になって汎用的な仕事をこなすだろう。そしてそれは決して遠い未来ではないはずだ。少なくとも宇宙に人類が飛び立つ前には人型アンドロイドが電気羊の夢を見るくらいには発展するはずだったのだ。

 

だが実際のところはどうだったのだろうか。

有人宇宙飛行では、スペオペどころか宇宙ステーション以上の発展は見られない。小惑星の石を持ち帰ることにすら膨大な予算と時間がかかり各国は非実用的な研究の予算を打ち切る方向だ。(はやぶさは本当に感動した!!天の川銀河ブラックホール撮影成功もものすごい出来事ですよ。)

月は・・・もう50年も行っていない。もはやアポロと言えばイチゴ味のお菓子であり、ポルノグラフィティだ。

人型ロボット、汎用的なロボットも身近な存在になりえなかった。ロボットと言えば限られた動作のみを繰り返す工業用ロボットを指すことも多い。20世紀のロマンを背負ってソフトバンクが打ち出したペッパー君は、結局人型をしているだけのタブレットで我々を失望させるだけだった。(たみーの声はよかったよ)

ルンバは部屋にものが少なければかなり実用的かもしれない。あと個人的には全自動草刈り機みたいなロボットを開発して欲しいものなのだが・・・おそらく無理なのでしょうね・・・

 

 

(これが結局一番使いやすい)

 

こんな具合に現実的に実感できる科学「技術」というものは思ったよりも実現することがなく、非常につまらない方向に未来の技術は進んでいくことになってしまっている。

理論上は可能である技術は数多くあるだろう。そしてそれはロマンあふれるものなのだろう。しかし「現実」がそれを許さない。

この「現実」というものは金銭的な事情などの社会的な要素としての「現実」だけでなく、物理学的な世界の個々の細かな条件という意味での「現実」でもある。スペオペにしても汎用的なロボットにしても、それを実現するために現実世界で複雑なタスクをこなすというのは昔の想像をはるかに超えるほどの計算が必要なことを我々は思い知った。そしてそんな偶然の嵐から逃れて、技術の発展は「現実」からコンピューターの処理能力の発展と共に情報分野へと偏重していくのである。

(未来なきわたしたちが美しき未来の夢を見るという運動がヴェイパーウェイヴで昨今の80sブームなのかもしれない。80年代という最後の夢見る時代の追体験なんですかね。でに私と同世代の同士たちには80年代と90年代の違いがあまりわからないみたいだ。なぜか『セーラームーン』の映像が80年代として扱われていたり・・・まあそんなことはどうでもいい。わたしたちにとって未来は過去にしかないということが重要。YMOの音楽を古臭さを感じながらなぜか未来ぽさを感じてしまう感性はなぜかZ世代にも受け継がれている。やっぱ80年代エモい。みんなマリマリマリーみよう!!)


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【ネタバレなし】『トップガン マーヴェリック』 時代遅れ?それでも・・・

トップガン マーヴェリック』を見てきた。評判通りの傑作。久々の快作。

 

というわけで流行りに便乗して『トップガン マーヴェリック』の紹介をする

 

というワケで本文なんだが。

80sが好きな人、アクション映画が好きな人、トム・クルーズが好きな人、飛行機が好きな人、それらに当てはまるならスマホを閉じて今すぐ劇場に行ってくれ。せっかく劇場の大画面大音響で『トップガン』が見れるんだ。躊躇する必要はない。きっと満足するはずだ。

 

 

 

とまあこんな素直な人たちは置いておくとして、少しこじらせた君だ。

そう私と同じ人種。流行りものは触れる前にはとりあえず疑ってかかる。大手広告代理店どもには騙されないという自覚があって、常に斜に構えて自我を保っている。

愚かな大衆と一緒にしないでくれ。

TwitterYouTubeのレヴューが口をそろえて絶賛している。それが気持ち悪い。ネットのノリが気持ち悪い。老人のノスタルジーも気持ち悪い。

よくわかるよくわかる。

そして見に行かない理由の論理武装はこうだ。

①今更トップガンってwww 時代遅れだろ。

②そもそもレーダーで先に探知したほうが対空ミサイルぶちかまして終わる時代でしょwww 

③そもそもアメリカ軍のプロパガンダ映画なんてイラク戦争以降全部ゴミじゃん。(『300』を除いて・・・)

④ハリウッド映画は退廃芸術!僕はゴダールを見る!!

 

君はどれだっただろうか?①から③の方。朗報だ。君は見に行けばきっと感動する。さあ劇場へいけ。

(④の方は・・・タルコフスキーの映画がおすすめ♡。YouTubeにモスフィルムが上げているよ。今すぐみよう♡。)


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確かに時代はステルス戦闘機。

トムキャットが引退してからもう20年近く。アメリカ海軍の戦闘機の戦闘機は、運動性能を抑え、ハイテク技術をふんだんに積んだF35への移行が進んでいる。(遅れている)近年ではドローンの有用性が広く認められているし、第六世代機は無人機になるのではないかという噂もある。パイロットが英雄になる時代はもう終わった。

それにアメリカのイラク戦争以降はアメリカ軍の話を明るく描くなんて、そんな空気じゃない。(ベトナム戦争物は昔から暗いですけどね。)

同時多発テロをオーバーラップさせた同じくトム・クルーズ主演の『宇宙戦争』もなんだかどよーんとした空気感だ。それから10年以上たってもアメリカの雰囲気は曇り空だ。差別問題、格差問題、陰謀論と様々な問題が噴出し、常に映画もその影響を受け続けている。

あの若々しいトムが演じた80sの『トップガン』の空気感なんて出せるわけがない。

と私は映画を見るまで思っていましたよ。

 

トップガン マーヴェリック』はある意味そうした鬱屈を自覚しながらも、それでも私は飛ぶんだ。アクション映画を撮るんだ。という姿勢を見せてくれる。

時代遅れ?そんなのわかっていますとも。お前に未来はない?それも知ってる。

でも今まだ俺はやれるんだ。「ハリウッド映画」を撮るんだ。という制作者の意気込みが感じられる。失われていくあの黄金時代。そのままやってしまえば老人のノスタルジーでしかない。だけれども、それを自覚したまま、メタ的な立場に立って開き直るそのやり方を私は歓迎したい。

私はZ世代なので冷戦もパクスアメリカーナも歴史上の出来事でしか知らない。私は物心つく前に911が起こった。80年代のように元気なアメリカを体感しているわけではない。それでも『バックトゥザフューチャー』は知っているし、MTVで流れていたようなポピュラーミュージックにはなじみがある。80年代のアメリカはすごかったってことを感覚的に知っている。


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そんな80年代の雰囲気をぜひナウに味わいたいと少しでも思ったのなら、劇場に赴くべきだ。このような貴重な機会を取りこぼすわけにはいかない。これが最後のチャンスになるだろうから。40年越しのきらめきは私たちを一瞬かすめて、思い出の廃墟の中にまた舞い戻っていくのだろう。

 

はじめまして。Z世代の代表ブログへようこそ

 

Z世代の代表というブログのRYANAだ。

(そして☆二号☆です♡わたしは言葉足らずでバカなRYANAをメタ認知する概念、メタ妹という種族です。なぜ二号かと言いますと一号は感覚世界にいるので、二号です。意味が分からない?わたしにもよくわかりません。)

本ブログの目的はズバリ、毒電波を世の中に発信し続け、目覚めた人々を率いて世界征服を完遂させることが目的である。嘘だ。そんなわけない。

本ブログではメタというキーワードから、様々な作品をテーマごとに紹介していきたいと考えている。わたしは割と雑食なので本なら文豪からSF、ミステリー、ライトノベル、漫画、図鑑。映像なら映画、アニメ、ゲーム、音楽もクラシックからポップミュージックまで様々なものを網羅的に扱っていきたいと思う。(結局どれもにわか知識だから網羅的にしか扱えないんです。RYANAは学者じゃないので真に受けないでくださいね。あと間違いがあったら教えて欲しいです。)

スタイルとしてはテーマを設定して、それにかかわる作品を紹介していきたい。一つのトピック、記事で6,7作品を紹介しようと考えているが、日常生活の中でどうしても紹介したくなったり、view数が稼げそうと考えたときは特別コーナーを設けて紹介したいと考えている。(流行りものにはなるべく便乗します。)

 

参考程度に好きな作家5選

ドストエフスキー

ゲーテ

ムージル

三島由紀夫

ベンヤミン

筒井康隆田中ロミオ山田一)、入間人間も大好きです。)

 

 

好きな監督

キューブリック

押井守

フリッツ・ラング

(日常系萌えアニメ、B級映画も大好き。おすすめは『アタック・オブ・ザ・キラー・ドーナツ』)

 

 

好きな漫画家

高橋留美子

永井豪

(この2人は別格。次いで島本和彦あずまきよひこ岡本倫は地味に全部の著作を読んでいる。お気に入りは『ノノノノ』)

 

 

どうぞみなさんよろしくお願いします。(お願いします。)