Z世代の代表 作品紹介

一号とRYANAがZ世代ならではの視点でさまざまな作品を紹介します。

FacebookがMetaに変わる時 現実を見失った我々はいかに生きるべきなのか。(2)

2.デジタルからメタへ リアリティの在りかを求めて

 

gzdaihyoryana.hatenablog.com

 

 

「デジタル庁は、デジタル社会形成の司令塔として、未来志向のDX(デジタル・トランスフォーメーション)を大胆に推進し、デジタル時代の官民のインフラを今後5年で一気呵成に作り上げることを目指します。

徹底的な国民目線でのサービス創出やデータ資源の利活用、社会全体のDXの推進を通じ、全ての国民にデジタル化の恩恵が行き渡る社会を実現すべく、取組を進めてまります。」

(デジタル庁ホームページ 組織情報 デジタル庁の概要より

https://www.digital.go.jp/about/

 

 

2021年、世界的なデジタル化の遅れを取り戻すべく、我が国に新たな省庁が誕生した。かくしてその名は・・・もちろんデジタル庁である。

果たして我が国のアナクロニズムにまみれた組織を粉砕し、現金、手書き、印鑑、FAXのアナログ四天王を打倒して、ついに夢のように快適で先進的な日本へと生まれ変わることができるのか?そして具体的にどのように変化するのか?NTTがGAFAMに並ぶ時代が(来るわけないでしょ)来るのか?ゲームの技術がついに日本を取り戻すのか?
などということはやはりどうでもいいので、ここではなくよそをあたってもらおう。

もちろん紙媒体などのアナログメディアの需要は日本の後進性など関係なく減少しているし、デジタル化と言うのは早いか遅いかの話であっていずれは必ずやってくる未来なのであろう。しかし私はノストラダムスとして振る舞うつもりなどはないし、ここでは基本的に過去の話をしたい。

問題はデジタル化によって我々になにが起こるか。精神的に。それが重要。

 

 

というわけで第二回では「デジタルとはなにか?」について語ろうかなと思いまーす。

 

前回のおさらいとして、人類の科学技術は実感として「現実」に敗北したということを思い出していただこう。そして我々人類に残された進化の道というものがコンピューターの発展に裏打ちされた情報分野であったということを念頭に今回のお話を始めよう。

というワケでコンピューターやデジタルについてなのだが・・・

そもそもコンピューターってなにか、アナログとデジタルってなにが違うのかということをみなさんご存じですかね・・・

意外と知らないんじゃないですかね。そうでしょう。

我々Z世代にもなじみ深いあのアナログ放送から地デジへの完全移行の時にも

「何が変わったんだ?」

「テレビがきれいに映るようになった。これぞデジタル」

「テレビが薄くなったのがデジタルじゃ」

「なんか画面比率が広くなったよね」

みたいな感想をもった人も多いはず。中学の夏休み。テレビを見ていたわたしもたしかにそんな認識であったのであまり人のことは言えないのであるが。

とはいえ結局デジタルと言うものが何なのか。それは(もちろんご存じの方も多いでしょうが)数字、二進法、数学と言ったものである。

アナログとデジタルの違いは、連続性を保ったまま転写するのがアナログ、情報を極小さく分割して整理した情報にしたものがデジタルで、分かりやすい例で言うとレコードとCD(今ではもう音楽を聴く媒体ではないCD。しかし参考書などにはいまだに付属しているため、わたしたちよりも若い人たちでもCDは使うそうです。)の差だ。

レコードでは音の振動をそのまま溝に刻み込んでいるのに対してCDは一秒を44000回に分割し、音を数字のパターンとして記憶して出力するということである。

そして画面について、ピクセルだとかフルHDだとかを聞いたことあるだろうか。

ピクセルとはパックマンの出てくるあの微妙な映画ではない。もちろんスマホでもない。

 

 

ピクセルとは画素と言われるもので、小さな正方形である。(なんか違う場合もあるらしいよ。詳しくは専門書をよんでくだされ)大体画面にはフルHD(1920×1080)のように個数が決まっていて、その正方形は16,777,216色の色に変化する。この小さな正方形の集まりが我々の使っている電子機器の画面をモザイクアートと同じ原理で表しているのである。(つまりデジタル画の原理は極度に整然とした抽象画と同じ。ロシアアヴァンギャルドで有名なガジミール・マレーヴィチは「黒い四角」とかいう、本当にそのまま黒い四角系の作品を発表しているけど、これはきっと予言者マレーヴィチピクセルを予知したものに違いない。)

Malevich.black-square.jpg

 

ja.wikipedia.org

 

(素人にはとても分かりやすい本。)

とまあこんな風に超超超基本的なデジタルについてのお話であったのだが、ここで私が言いたいことは、デジタルは「現実」ではないという、なんとまああまりに当たり前のクソほども面白くもない結論である。

もちろん実際に製品を開発したり、中で行われている処理というものは現実的な出来事であるのだが、デジタルとして我々の目や耳に届く情報、つまりは画面情報や音楽、音声。すべて無限につらなる「現実」を抽象化したモザイクなのである。

デジタル化とはつまり「現実」の偶然性から逃れ、整然とした世界を作り上げること、つまりは技術的な「現実」逃避(ここでの「現実」は現実社会という意味ではないよ。)なのである。そして我々はそのことをしっかりと実感しているということだ。

「現実」という言葉には沢山の対義語がある。理想、夢、妄想などなど近代以降様々なユートピアを「現実」という言葉でこき下ろしてきたわけなのだが、デジタル化が進む中新たな概念が「現実」という言葉の対立として置かれるようになった。

そうそれがネットである。(ネットと現実という言葉の対立はゴロがあまりよろしくないので、「リアル」という言葉のほうがよく用いられる。)

「ネットと現実のギャップ」だとか「ネットばかり見ていないで現実を見ろ」だとか割とよく聞くフレーズなのだが、考えてみればおかしいものなのである。ネットだろうが抽象化された情報の向こう側には他人がいるわけであり、その中でコミュニケーションが成立、もしくは破綻していようが人間関係なのには間違いがないわけで、それを「現実」と対立させ低位に置くというのは変な話だ。

そしてこの無意識的な実感である現実>ネット、デジタルと言う感覚とデジタル化社会という矛盾は我々の認識に非常に興味深いギャップを与え、我々の中に興味深い意識構造を生み出したのではないか私は考えている。

それはそう。「メタ化」という視点だ。

 

 

 

(くぅ~疲れました。ついに到達しました。いやほんとに長いよ。なぜか「メタ」についての話をするのに50sSFの話からはじめているし。

こんな前書きですが、このブログの目的はメディア史でも技術論でも社会学でもなんでもないです。

作品紹介ブログです。このクソ長前書きが終わったらメタフィクションを中心に作品紹介を行います。小説、思想、映画、漫画、アニメ、ゲーム、美術、音楽からどんな作品でも私がいいなと思ったものをテーマごとに紹介しちゃいますったらしちゃいます。)

 

冒頭でも触れたFacebookの社名変更。突然の私Metaって名前になります宣言。なぜFacebookGAFAの座をFANZAに明け渡してまでメタバースに力を入れようとしているのか。その答えはもちろん投資を集めるため、でもあるだろうが私には先ほどから指摘しているデジタル化の推進と現実と比較してデジタルが低位であるというコンプレックス、そして「現実」において技術発展を行うことがあまりに難しいということが背景にあるのではないかと思う。

ムーアの法則は最近破綻したと聞くが、デジタル化が進めば確かにデジタルは「現実」に近づいていく。人間の五感ではわからないほど現象を分割し、科学的には現実と見まがうようなものになるだろう。しかし実感として我々はデジタルを、抽象画を現実とはみなさない。そのためデジタルはいつまでも現実になることはない。

しかし現代人が直面する問題はそれだけではない。我々はそもそも「現実」に絶望しているのだ。未来を見ても美しき未来どころか、サイバーパンクすら到来しそうにない。(それを察知したSF界隈は80sごろからは懐古的な技術を夢想する過去改変的な未来、スチームパンクが現れたよ。FFシリーズなどはそれの影響が強いんじゃないかな。【未プレイ】)

 

現実もデジタルにもユートピアはない。どこに行っても未来はない。そしてそれをより高次の視点で解決しようというものが「メタ」なのである。

 

 

 

メタ(Meta)とは語源的にはアリストテレス形而上学(Metaphysics)というところに行き着く。由緒正しき言葉であり、やはり哲学の言葉なので解説が難しい。

この言葉の使い方はアリストテレスデカルト、カント、ハイデガーなどなどそれぞれ異なるであろうし、おそらく多くの哲学専攻の方に突っ込まれることを承知でいうが、形而上学とは究極の根拠、実在している存在から超越した高次なものについての学とでもいおうか。

 

 

誤解がたくさん含まれるだろうが、簡単に言えば対象を外側からみることである。

例えば私の大嫌いな言葉であるメタ認知(えっ。嫌いなの?→詳しくは自己紹介へ)であれば自身の自我を外側から見ることであるし、私の大好きなメタフィクションなら物語世界の外側である観測者われわれを含むフィクションのことだ。

そして肝心のメタバースだが、Metaとverseのカバン語だ。

つまりは外側からみたラップのフックのリリック。ギミックたっぷりにフィニッシュ。客側からみたらミミックであり。ヒップホップミュージシャンのスピリッツとしてMCの必殺技として伝授されるスタイリッシュな大技・メタフィジックである・・・わけはない。

これはユニバース(universeマルチバース(multi-verse)のように宇宙を意味するバースだ。マルチバースの視点では宇宙は一つではないということで、uniが取り去られてしまったが、このように語源的なイメージを考えるなら、メタバースというのは超越的に宇宙(そしてこれはおそらくデジタルな宇宙こと仮想世界)を捉えるということなのだろうか。そこからメタバースと言うのは仮想であることを超越的な現実感で自覚しながら、仮想空間を肯定するというスタイルに思える。

デジタル空間をメタ的に捉えることにより、非現実ですよという批判的自覚を持ち、現実>デジタルというコンプレックスを解消しながらも「仮想ですがなにか?」「仮想と知っててここを選んでんだよ。」という一種の開き直りを見せ、デジタルを肯定する。

これが令和のニュースタンダードなのか。それとも失敗に終わるのか。それは現時点では全くの未知数だが、「現実」に絶望し、デジタルに現実を感じられない我々にとってはそうした開き直りがただ唯一のものにも思える。

そしてそれは科学技術のみではない。(そしてこれが本ブログの問題意識であります。)

現実を喪失した我々は常にメタ化という開き直りにてナイーブな心を守っている。それは様々な価値観が群雄割拠し、それぞれの欠点が開けっぴろげにさらされている現代において、やはり根源の根源たる形而上学への回帰がやはり唯一の道だからなのか。ニヒリズムに効く処方箋はメタ化しかないのか、神がいるかどうか、人生を賭けた賭けをする時代は終わったのか。(パスカルさんパンセ―!!)これから作品紹介をしていくわけだが、そんな作品に触れたり思い出したりしながらそれぞれの答えが見つかってくれればうれしいなと思う。

 

 

(徹底的なメタ化の視点を持ったクリエイターと言えば?日本人ならやっぱり押井守を挙げる人は多いんじゃないかな?戦後世代の現実感のなさとバブルという幻影。夢と現実。身体と機械、魂。やっぱ押井は偉大!だけど00年代以降、最もラジカルに突き詰めた人物は田中ロミオなのではないかと言う気がする。)