『タクシードライバー』という映画がある。
私は最初この映画をリュック・ベッソンの『TAXi』シリーズのようなアクション映画だと思っていたが、全く異なるものだ。
監督はあのスコセッシ。
そして主演にロバート・デ・ニーロ。
そして当時まだ13歳だったジョディ―・フォスターが娼婦を演じている。
そんな『タクシードライバー』のあらすじはこのようなものだ。
彼には家族もなく、恋人もいない。失うもののない孤独な彼はタクシードライバーとして夜タクシーをNYに走らせる。
NYと言う町は娼婦から大統領候補まで様々な階層の人々が暮らし、タクシーを利用する。トラヴィスは政治にはあまり関心がないが、ある時選挙活動のボランティアをしている女性に一目惚れ、彼女に近づきデートに行くことに成功するが、彼がポルノ映画をデートコースに選んだため振られる。
そして彼女から縁を切られた彼はある大きな計画を思いつく。
そう大統領候補の暗殺だ。
戦争や社会格差そして孤独によって狂ってしまった男が、特に思想もなく大それた暗殺計画を立てる。
具体的にその候補や政党に不満があるわけではなく、社会全体への不満から起こるテロリズム。
トラヴィスはNYという町そのものを恨んでいる。
強盗は多発するし、金持ちと貧民が隣り合せでごちゃごちゃと暮らしている。そして12歳の女の子が、星占いを信じているような子供が男に騙されて身体を売っているような町。
そんな街への不満が、偶然大統領候補暗殺というベクトルに振れてしまったのである。
このように本作は荒唐無稽なテロリズムを描いた作品ではあるが、現代においても支持する声は絶えない。
この映画はアカデミー賞にノミネートされるなど高い評価を得た。
そしてエンパイア誌の史上最高の映画のキャラクターという投票企画において主人公のトラヴィスは18位を記録している。
さらに言えば1981年のレーガン大統領の銃撃事件。
犯人のジョン・ヒンクリーはジョディ・フォスターの大ファンで、『タクシードライバー』に影響されてこの事件を起こしたと言われているほどだ。
レーガン大統領は弾丸を心臓がかすめるなど、重症を負った。何とか回復し一命をとりとめたものの、この事件の影響は計り知れないだろう。
本作のトラヴィスは作中ではしがない男であった。しかし作外において、ある層からの大きな支持を集め英雄となってしまったのだ。
思想などないし、自身の頭の悪さを知っているし、何物にも成れない。
だが歴史に名を残したいという欲求だけは人一倍強い。
残された手段は一つだけだ。
物語の英雄のように、皆に尊敬される形で名声を得ることはできないが、ピカレスクとして、悪役として名を刻むことはできる。
(本作は『タクシードライバー』に影響されているという。)
皆があこがれ、民衆が後ろについていくような人は感情移入するには遠すぎる。かといって信者になって持てるものの後ろについていくのはプライドが許さない。
それならば皆に蔑まれ、恨まれ、詰られる側として、悪として名を残して死にたい。
そうした人にとってトラヴィスは、自分のように小物だが夢だけは馬鹿でかくて、そして手が届きそうな、そんな人物に映るのかもしれない。
押井守は本作そのものがテロリズムだと言っているが、それは間違った指摘ではないのだろう。
私も『タクシードライバー』という作品は危険であり、テロリズムそのものだと考えている。
(犯罪を誘発する作品ランキングでは『イニシャルD』よりは下だろうが。)
だがそうであっても『タクシードライバー』を規制するみたいな方向に話が進んでいくことには頑強に反対したい。それはただのきっかけであって根本的な解決にはならないからだ。
『タクシードライバー』から学ぶことは大きい。本作では狂っているのはトラヴィスだけではないということが示されている。トラヴィスをこういう風にしてしまったのは、アメリカ社会の歪みであり、町そのものの矛盾なのだ。
アメリカと言う国家に依拠した幻想が崩れ去り、アイデンティティが崩壊した兵士たち。
職もなく友人もなく、家族もなく孤独に町にさまよっていると、大それた幻想を抱く。
孤独ゆえ世界とダイレクトにつながってしまうのだ。
(ラスコーリニコフとの違いは思想の裏付けがあるかないかだ。トラヴィスのほうがより感覚派であり、難しい問題である。)
こうした拠り所の喪失という問題は米国だけでなく現代における世界的な課題だ。
そしてそのためにも、一人一人が拠り所を見つけ、お互いに承認しあう世の中を作ることが、第二第三のトラヴィスを産まないために必要なことなのかもしれない。
(日本では大きな幻想を持つ時代は段階的に終わりを迎えた。1945年1969年1992年そして1995年である。現在様々なアプローチで復興を模索しているがおそらく失敗に終わるだろう。)