(映画やアニメという枠でなくわたしが最も好きな作品)
インターネットで話題になったものなのだろう。ある漫画の台詞でこのようなものがある。
「「「なにが嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!!!」」」
(ちなみにこれはルフィじゃないらしい。しかし作者から『ワンピース』が好きだってことが伝わってくる。二重の意味で説得力のあるコマですね。)
私も基本的には自分の好きなことをこのブログ綴ることで、自分自身を語っているつもりなのだが、実は私の根本たる山脈についてあまり語ることができていない。
「好きを語る」というけれど、あまりに愛情が深すぎると扱うことも難しい。
私という人間を形作るまさに基礎そのものと言ってもいいのだろうが、あまりに膨大であるため切り口が見当たらない。
好き、まあ好き、普通に好き、どちらかというと好き程度であれば、簡単に言葉を連ね、愛の言葉をささやきながら皆さんにさらけ出すことも可能だ。
しかし好きそのものを語るのは非常に苦しいものであるということが、このテーマを扱おうということで私が気付かされた事実である。
私はこれから何度もこの作品について、好きを語ろうと思うのだが、それはもはや自らの心の奥底をさらけ出すことと同義だ。
そしてその覚悟を示すためにも、前書きとして私が『うる星やつら』をどのように語るのかという記事を残しておこうと思う。
これはこのブログの趣旨からは大きく外れる自分語りであり、ここで語られる情報はあまり有意義なものでないかもしれない。
しかし私はここでこうしたけじめをつけぬことには、その膨大な感情を整理し、切り刻んだ形で記事にするということがどうしても許せないのだ。
これから何回かに分けて『うる星やつら』という作品について語る。
ちなみに私は原作派でもアニメ派でもない。
そもそも『うる星やつら』は原作の中でも劇画的なタッチで、不幸な少年諸星あたるを中心とした少し不思議なオカルト小話をやっていた最初期と、『トラブルは舞い降りた」以降2年生に進級してからの「君待てども」「君去し後」などのラブコメ路線期など原作の中でもかなり色が異なる。
そしてアニメの中でも押井守をはじめとした個性豊かなクリエイターの手により、大きなアレンジが加えられているため、原作とは異なるうえに、押井期であってもドタバタ重視の初期とアバンギャルドな後期では色が大きく異なるし、やまざき以降においても、アニメ劇場版OVAでそれぞれ異なる輝きを見せている。
そして私はそうした一つの作品において非常に豊かな多様性を内包した『うる星やつら』の精神が好きなのだ。
私の精神そのものと言ってもいい『うる星やつら』。
もし気が向いたらこれから語る『うる星やつら』についての文章に目を通してみて欲しい。