Z世代の代表 作品紹介

一号とRYANAがZ世代ならではの視点でさまざまな作品を紹介します。

『文化のルーツとしての美少女ゲームと「開き直り」『ランスシリーズ』の分析(1)』

 

ヴィジュアルノベル、美少女ゲーム

簡単に言えばエロゲーの話をしたい。

エロゲーと聞くと多くのひとは戸惑い、そしてアダルトビデオや成年向きコミックのゲームバージョンだと思うことだろう。

もちろんその指摘は完全には間違ってはいないし、いわゆるポルノと呼ばれて社会的に蔑まれてしまっているジャンルに収まる作品も数多く存在する。

 

(私はポルノというジャンルを下らないものだとは思っていません。むしろポルノにはポルノにしかできない表現があり、価値のあるものだと思っています。しかし性欲というものはしばしば反社会的なものであり、暴力そのものでもあるため、公共の場で表立ってポルノを掲げようとは思いません。)

 

しかしエロゲーすべてがくだらないポルノであるなんていう指摘は大きく間違っている。

そしてエロゲーというジャンルから生まれた文化は、古き日のピンク映画など比較にならないほど大きく普及し、現代の日本文化の大きなルーツとなっているのだ。

 

 

(ピンク映画に例える人がいるが、客観的に見ても出身者の人数、経済規模、影響どれをとっても比較にならないほどエロゲーほうが大きい。ただ、エロゲー出身者は日本のオタク文化に集中しているので、文化の広さや普遍性ではピンク映画に軍配が上がるかもしれない。)

滝田洋二郎監督のwikiを見てみよう)

 

いくつか例を挙げてみよう。

例えばメイド喫茶というもの。これは『piaキャロットにようこそ』というゲームのイベントがルーツだとされている。

 

(コンシューマー版)

またツンデレという一般的に普及している言葉も、『君が望む永遠』の大空寺あゆに対して使われた言葉が普及したものだ。

 

 

具体的な作品への影響も上げておく。

誰もが知っている京都アニメーションufotableなどのアニメーション制作会社だが、両者に共通するのはエロゲーのアニメ化によって人気を博したということだ。

 

(KanonのヒロインはNHK所ジョージと共演している。)

 

(最も稼ぐコンテンツの一つであるfateエロゲーだ)

 

そして2010年代で最も人気のあるアニメーションの一つである『魔法少女まどかマギカ』や『サイコパス』などの脚本家である虚淵玄はアダルトゲームブランドであるニトロプラス所属である。

ニトロプラスはその後『仮面ライダー』や『ゴジラ』などにも関わった。女性向けであれば『刀剣乱舞』などでヒットを飛ばし、アダルトゲームブランドとしての色は薄まったが、つい最近まで『凍京NECRO』の18禁ソシャゲーを配信していたれっきとしたアダルトゲームブランドである。

(ただニトロプラスはアダルトゲーム事業とニトロオリジンに移行している。)

 

(これ地味にコンシューマーでてないよね。村正ちゃんほんま好き)

また現状のトレンドに触れるなら、有名vtuberのデザインを担当している人はほとんどがエロゲー畑出身である。


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(ゲスイ動画だが、文化に対する気持ちが伝わってくる。)

 

オタク文化以外にも目を向けてみよう。

例えば直木賞作家である桜庭一樹は18禁作品にこそ関わっていないが、アダルトゲームの続編である『EVE The Lost One』のシナリオライターであり、数多くのノベライズも行っている。

 

(また彼女が出したライトノベルで『竹田君の恋人』というものがあり、成年漫画における「淫語」の発展に大きな影響を与えたみさくらなんこつとタッグを組んでいたりする。)

 

またエロゲー出身のイラストレーターはオタク文化を通り越して、児童文学の表紙を担当するものや、ノーベル文学賞作家のコミカライズを任されるような人物までいるのだ。

 

(LO作家でもある)

 

このように見ていくと好き嫌いに問わず日本文化を語る上でエロゲーから目をそらすことは不可能であることがわかるだろう。

 

とはいえオタク文化にあまり詳しくない人たちや、オタク文化に詳しくともエロゲーに明るくない人達にとって、独特に醸成されたエロゲー文化に足を踏み入れるのは非常にハードルが高い。

現在エロゲーは古いものであればダウンロードや中古で比較的に安く手に入るが、一作品が長く負担も大きい。

また歴史が長く情報も少ないためどの作品をやればいいのかを吟味したり、ネタバレ抜きでどのような作品でどのような意義があったのかということを知ったりすることが難しい。

 

というわけで、ここでは私がプレイしてきたエロゲーの中でも、最もよかった作品をいくつかネタバレ抜きで紹介しながら、エロゲーの楽しみ方を考えてみよう。

 

  • ランスシリーズ

ハードルの高いシリーズに見えるだろう。

恐らくエロゲーの中で最も長いシリーズであり、エロでないゲームというくくりであっても、これほど同一の主人公を据えて長く続いたものはあまりないだろう。

シリーズの作品数は13だが、大筋は1~10までであり、2つはリメイク作品、一つは分岐したスピンオフ作品である。


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(少々ネタバレになるが、雰囲気や流れはこれでつかめるはずだ。)

 

本来なら発表順にプレイしていくのがいいのだろうが、最初の作品は古くきっと挫折する。

私がオススメするやり方としてはランスⅥの公式サイトにあるダイジェスト版をプレイしてから、3→4と進んでいくやり方だ。

www.alicesoft.com

4までは無料でプレイできるので、金銭的なハードルも低いというメリットもあるが、『鬼畜王ランス』というランスシリーズの世界観を知る上で最も重要なスピンオフに自然に至ることができるのもこのルートをおすすめする理由だ。

もちろん最初から『鬼畜王』からプレイするのもありだし、リメイク版の01からプレイしてもいい。

ランスシリーズは一度区切りがついているので、『RANCEⅥ』からプレイするというのもありだ。

人によっては7番目である『戦国ランス』から勧める人もいるが、戦国ものやシミュレーションゲームが好きなのであればそれもあり。

ようするに途中からでも楽しめるようになっているから、なんとなくプレイしてみるみたいな気持ちでやってみよう。

 

 

 

 

魅力

ランスシリーズの魅力は様々である。

まず1つ目として挙げられるのはエロゲー30年の歴史を体験できるということだ。

システムやグラフィックの変化に驚き、キャラクターの描かれ方などをみていくとその時代のトレンドを読み解くことができる。

 

 

2つ目に挙げられるのは世界観設定やシナリオ構成がたくみなことである。

ランスシリーズは一作目が探偵ものだったり、二作目、四作目は『インディ・ジョーンズ』のような探索ものだったりするが、大筋は様々な国の思惑が錯綜する戦記ものである。

戦記物としても征服を描いた『鬼畜王ランス』や『戦国ランス』、他国の陰謀による事変を描いた3作目、革命を描いた6作目、9作目など様々なテーマを取り扱っていて、それぞれのクオリティも高い。

伏線回収やワクワクさせる熱い展開などもこの作品にひきつけられるところである。

 

 

そして3つ目に上げられるのが正義や常識への批判精神である。

ランスシリーズのコンセプトはアンチRPGだ。RPGにおいて力を持った主人公は正義に従い、世のため人のために悪を討つというのがステレオタイプであるのだが、ランスは正義のためでなく自身の性欲のために力を使う。そこに正義などはなく、対して罪のなくとも気に食わない男を殺し、美しい女性を襲う。

ランスシリーズはプレイヤーが覆い隠している欲望をぶっちゃけた作品なのだ。

しかしランスシリーズが面白い点はただ本音を暴露したという点だけでなく、そうした率直な願望に対するカウンターを世界観に内包させたところだ。

そしてこれがランスシリーズが欲望をただ反映したポルノ作品ではなく、究極のエンターテイメントである所以なのだ。

ポルノというのは率直に欲望を掻き立てるものであり、そこに言い訳は存在しない。

つまりやりたいことがそのまま描写されているものがポルノであり、たとえ性的な欲望でなくてもポルノ的であることはできるわけである。

しかしそうした欲望をそのまま描写することは、「ご都合主義」であり陳腐なものとみなされエンターテイメント作品として成り立たない。

エンターテイメント作品とはポルノ的な精神を根源としているが、「ご都合主義」で陳腐なものにならないために、欲望を隠すためのたくさんの言い訳を内包している作品のことを指すのだ。

例えばそれは作品世界の構造がいかに緻密で作り込まれているかを示す「伏線」であったり、思い描くユートピアがいかに倫理的であるかを示す「正義」であったりする。

(そうした意味で社会派作品と呼ばれる作品は言い訳の多いポルノ作品であるということもできるだろう。)

 

言い訳が沢山あるとはいえ根源はポルノ的な欲望なのであり、エンターテイメント作品というものはそうした暴力的視点により必ず歪められている。

そしてランスシリーズという作品はそうしたエンターテイメント作品の暴力的構造をラジカルな視点で明らかにするのだ。

 

(ちょっとネタバレ。作品世界の根源に関わる記述あり。話の展開へのネタバレはなし。)

 

 

 

 

 

 

ランスシリーズの世界は神様たちが戯れに作ったものである。そしてその神様の中にもランクが存在し、世界を実際に作る神(これは原画神やシナリオ神などと設定されている。ゲームを作成したスタッフたちである。つまりランスはメタフィクションでもある。)が存在している。

そして一番偉い神様であるルドラサウムがそうした神様、つまりクリエイターに世界を作らせたわけであるのだが、彼が世界を作った動機は世界を外から苦しんでいるキャラクターたちを眺めたいというものなのである。

そしてこの傲慢な神様はもちろんプレイヤーの似姿なのであろう。

 

 

ランスシリーズはポルノ的な欲望と暴力性をぶっちゃけている作品の特質上、この作品がポルノでなくエンターテイメント作品として評価されるには、かなり説得力のある言い訳が必要であった。

そしてこの傲慢な神様は、エンターテイメント作品の根源的な構造を暴露し、反エンターテイメント的構造を取ることで究極の言い訳になる。そして逆説的にランスシリーズのエンターテイメント性に説得力が産まれるのだ。

retropc.net

(90年代までに出たランスシリーズはただでできる。詳しくはこちらへ)

 

gzdaihyoryana.hatenablog.com

 

 

エロゲー文化の最大の特徴である「開き直り」

物語の構造の暴露というのは、一般的には物語世界への同化を阻害するものである。歴史を振り返ってみると、『ドン・キホーテ』という最古の小説では騎士道物語という物語構造をパロディ化し、その時代錯誤さを暴露するというものになっている。

 

 

 

近現代に焦点を当ててみる。ベルトルト・ブレヒトの演劇理論では、感情移入を中断し、異化することにより物語構造を明らかにする。そしてそれは現実社会との相似関係を観客に思考させる叙事的演劇というものである。

 


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(メルカリのCMのBGMとしても使われている。あまり詳しくはないが、ジャズではポピュラーなテーマらしい。元ネタはブレヒトの『三文オペラ』でありこの楽し気な曲調に合わせて殺人鬼のグロテスクな行為が歌われる。このミスマッチが作品を異化し、構造を明らかにする。)

 

そしてその物語構造と相似関係というものはイデオロギーを失い日本で独自に発展してきた。例えばブレヒトに影響を受けた寺山修司は『田園に死す』において、自身が創作するものはすべて自身の体験によるものであるという「創作構造」を物語構造に持ち込んだ。

 

そしてそれを『惑星ソラリス』のような母胎的なユートピア思想に結び付けたのが押井守であり、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』だ。

 

 

『うる星2』ではサザエさん方式で年を取らない世界をループ構造として表現し、さらにその皆が成長しない状態にとどまるのを、ヒロインラムちゃんの無意識の願望、つまり夢であると看破した。

そしてここで発見された作品の「ループ」と「誰かが想像したユートピア」という構造はこれ以降最も重要なオタク文化のキーワードになる。

そして『エヴァンゲリオン』において創作者と観客の境目があいまいになる。

エヴァ』は「創作論」としての構造を持っていたが、オタクと監督があまりに近かったために、オタクがアニメを鑑賞するという構造が、作品構造と相似関係になってしまったのだ。

エヴァンゲリオン』は一応のところ最終的には構造を暴露し作品破壊を行ったが、それは監督の意図とは逆に異化ではなく、同化の作用として働いてしまったのではないだろうか。

 

 

そしてオタク文化において、『エヴァ』とほぼ同時期に同化を目的とした作品構造の暴露が、つまり開き直りが行われていく。

そしてその代表的な作品が、今回紹介したランスなのである。

 

一応今回の捕捉として、最初期の開き直りの作品の例をいくつか挙げておこう。

 

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』、『臭作』、『ever17』である。

 

(PC98版は恐ろしくやりにくいのでリメイク版のほうがいいかもしれない。平行世界をテーマにした作品で最も納得のいくラストをやってしまっている作品。間違いなく名作だ。)

臭作

臭作

  • エルフ
Amazon

(前半は普通の暴行ゲームだが、終盤に驚くべき事実が判明する。あの文芸部などにも影響を与えているのだろう。)

(ミステリーSF作品でメタフィクションとしても面白い。一つ言うならば、ドイツの日付ってアメリカとは違う順序で表すんだよね。アメリカの研究所設定だったら完璧だった。)

ここで上げた作品の共通点はループ構造や平行世界という概念を作中世界に持ち込み、物語構造と相似関係を作った上で開き直る点である。

 

 

(まあ一応これを挙げておく。YUNOの分析は『ポストモダン』のほうに、ループ構造の分析は『ゲーム的リアリズム』のほうにのっている。名著だとは思うけど、ループ構造の分析については批判すべき点も多い。それについては次回の『最果てのイマのほうで。)

 

その他にも元長柾木による『未来にキスを』、『フロレアール 好き好き大好き』などは認識論的なテーマから、エロゲーをプレイするということの構造を暴露する。

(皮肉と捉えることもできる。)

 

エロゲーライターからメフィスト系の作家までごった煮にした謎雑誌。西尾維新舞城王太郎、佐藤友也なども参加。)

 

これらの作品に共通するのは物語世界の肯定であり、物語世界に埋没することへの開き直りだ。そしてこの物語世界への埋没というテーマはその後のエロゲーオタク文化に引き継がれるテーマになっていくのである。

というわけで次回はこうした開き直りの前提を踏まえた上で、その物語世界に埋没することに意味を持たせた作品である『マブラブ』シリーズや、開き直りを究極まで突き詰め、前述のループ構造の欠陥を暴露した『最果てのイマ』などを紹介したいと思う。

 

(みんなロミオだとコレ上げるけど、私は完全に『イマ』派。)

 

(『進撃の巨人』の作者がファンを公言している。次回は『進撃の巨人』も少し絡めた議論をするかもしれない。)

 

 

(「開き直り」というテーマにおいて例外を挙げるとするなら、『さよならを教えて』である。この作品は徹底的にエロゲープレイヤーの暴力性を否定する。女の子に不幸にして感動するいわゆる泣きゲーと呼ばれるジャンルがあるが、『さよならを教えて』においてはその構造が自作自演であると暴露する。これは泣きゲーに関わらず、感動やカタルシス効果を狙った作品すべてに対して有効な批判精神であり、『さよならを教えて』の批評性はエロゲーの枠を超えている。しかしそんな物語世界の不幸が人工的であるということすらも開き直るのがランスシリーズであり、その開き直り力の高さ故にわたしは究極のエンターテイメントであると考えている。)

 

 

 

(『さよならを教えて』のもつ批判性は純愛物と称して悲劇をエンターテイメント化する暴力性に向いているのだ。そしてそれは泣きゲーだけには収まらない。)

 

(これは参考になる資料である。前半部分はこれを参照した。)