Z世代の代表 作品紹介

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『賛否両論『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』の問題 個人的には楽しめたけど・・・』

 

ジュラシックワールド 新たなる支配者』。英題だとdominion。

ジュラシックパーク』シリーズの最新作で一応完結編ということになっているみたいです。

 

 

ちょっと前に公開されていて割と賛否両論だった本作。

 

レビューサイトの感想を見ていると結構厳しい意見もちらほら散見されます

 

とはいえ人のレビューを全くあてにしない私は、とりあえず見てみようということで、一ヶ月遅れくらいで劇場へ。

 

結論。

おもったよりおもしろい。

 

 

確かに初代『ジュラシックパーク』には敵わないけれど、シリーズ中でも特別ひどい出来だとは思いませんでした。

登場人物の頭の悪さは流石に『ロストワールド』には勝てません。

 

 

良いところをまず挙げるなら、単純に恐竜の登場する映像がなかなか見ごたえがあるということですね。

中盤の盛り上がりどころであるラプトルとカーチェイスするシーンとか、終盤の恐竜バトルは臨場感があって見入ってしまいました。

シリーズ恒例の車の影に隠れて、鼻先を突きつけられるシーンも緊張感がありましたし、新しく登場したテリジノサウルスだとか、ギガノトサウルスだとかのデザインも洗練されていて、かっこいい。

(テリジノサウルスってあんな襲ったりするような恐竜だったのでしょうか?)


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また恐竜の可愛さもシリーズの、特にワールドからの見どころの一つでしょう。特にラプトルのブルーの子供は可愛い。

また構成に関して、『パーク』時代の登場人物が今回の作品には登場して、『ワールド』の登場人物とは別軸で話が進んでいくのですが、この二つの軸をうまく合流させたのも無理がなく、そんなに悪くなかったんじゃないかなと思います。


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でここからはおそらく賛否両論であろうゾーン。

軽めのところから行くと、恐竜の行動が不自然なんじゃないかなってところ。

これは『ワールド』になってからの問題点と言えばそうなのですが、恐竜が人間じみてるというか、脚本に動かされている感がつよい。

例えば『ワールド』一作目のラストシーン。合成恐竜であるインドミナスレックスと最後戦うのはわかるんですけど、ティラノサウルスとラプトルが協力して戦うってのはいかにも漫画じみていて不自然に感じられます。

そうした恐竜の人間じみた描き方は今作でも健在というか、むしろエスカレートしていて、群れで行動する種類でもない恐竜が協力プレイをかましたりします。そこらへんはもっとリアリティを重視して欲しかったですね。


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そして最も問題なのは主役恐竜の不在というもの。

本作は人間の思惑が交差して物語が展開していくので、恐竜の舞台装置感がかなりつよいんですよ。

ネタバレ抜きで大筋を説明すると、世界で起こっている環境異変にはあるバイオ企業の陰謀が関わっていて、それを阻止するために『パーク』『ワールド』の登場人物が世界各地を奔走するというのが本作の内容。別に恐竜登場しなくても成り立つ筋なんです。

今までのシリーズでは、基本的には主役恐竜がいました。

一作目ではラプトル、二作目ではティラノサウルス夫妻、三作目ではスピノサウルス、『ワールド』一作目ではインドミナスレックスと言ったように。

基本は島の中で話は展開されて、恐竜対登場人物という対立構造になっていて、主役恐竜との決着が主題となっていました。

そのため分かりやすく恐竜が活躍しますし、オチもすっきりしたものになっていたのです。


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しかし『ワールド』二作目くらいから、島の話から、陰謀の話が主題になっていくんですよね。そうするとラストシーンで一応主役恐竜の座であるインドラプトルとの決着がついてもなんだかすっきりしない。

人によってはそれを投げっぱなしだとか、無責任な作品だという印象を受けるのでしょう。これは本作も同じでした。

 

ではどうして『ジュラシックシリーズ』は風呂敷を広げ、島から恐竜を持ち出して世界中にばらまいたのでしょうか。

もちろん島の中で話を展開するのには限度があるし、単純にスケールの大きなお話を作りたかったという事情もあるでしょう。ただもう少し制作スタッフたちに寄り添ってみるならば、復活させた恐竜を世界に持ち出した意味というものが一応見えてきます。

 

 

『ジュラシックシリーズ』において恐竜たちは、インドミナスレックスのような恐竜だけでなく、人工的に作り出されたものです。もちろん基本はオリジナルのDNAを用いているのですが、繋ぎとして様々な動物の遺伝子を混ぜこんでいることが劇中でも明かされています。

それは恐竜を復活させるということに対してのSF的な説明というだけでなく、現実にある人類の問題とオーバーラップしているのです。

もともと『ジュラシックパーク』という作品はクローン技術など生物学の発展に伴う倫理の問題について警鐘を鳴らす作品でもありました。

そのため基本的に研究所は実験対象を制御できず、本作も含め通算6回目の大失敗を犯すわけですが、本作では生物学の問題を超え、人類とエコシステムの関係という大きな問題を取り扱おうとしています。

これが厄介というか、面倒くさい問題で、人類を自然の中でどのような立ち位置で解釈するかというところが難しいのです。

 

簡単なのは人類を自然に対立する存在として描くことです。そうすれば、人類に自然は制御できないというオチにするだとかできますし、プロメテウスの火のように人類の手に余る自然科学は身を滅ぼすという警句にしても納得感がありますよね。

しかし本作はそのような凡庸なオチにはしなかったわけです。そしてそれは人類もまたエコシステムの内にあり、科学技術にしても自然の内にあるという思想から成り立っているのでしょう。もちろんこれは好き勝手気ままに技術を発展させて、汚水を垂れ流してもいいというわけではなくて、人類はすでに生態系に大きな影響をもたらし過ぎていて、人間が突然自然に無関心になったとしてもバランスが崩れてしまう、だからこそ自然と人類という対立をやめて技術をエコシステムに取り込んでいこうということなのです。

『ワールド』2作目のラストは世界に人工的に作られた恐竜が放たれましたが、それは人類が人工物によってエコシステムを書き換えてしまったことを暗示しているのです。そして本作では一応のところ技術をどのように用いるべきなのかということが示されているのですが、そのやり方はプロメテウス神話的技術観を持っている人には欺瞞という風に思われるでしょうし、技術と自然どっちつかずの結論に不完全燃焼感を感じる人も多いのでしょう。

 

 

このなんだかもやっとすっきりしない感というのは、近年の米国映画に顕著な特徴と言えるかもしれません。

やはり善悪二元論的に白黒つける映画が大衆にとってはすっきりと面白いものなのでしょうが、なかなか昨今の状況的に作るのは難しいです。

私は個人的には本作を楽しめたのですが、恐竜を見てすっきりとしたいという層には不評なのではないでしょうか。

映画業界において、リアリティのある恐竜を描写できるコンテンツは『ジュラシックシリーズ』しかありません。

個人的には『ジュラシックシリーズ』が続くならば、扱いきれないテーマに取り組むのはやめて、考古学的な、もしくは生物学的なテーマを扱って、中生代のロマンを掻き立てるような作品にしてほしいと思いました。