こどもじみた考えである。
非倫理的で不謹慎な、道徳的に許されない想いである。
だが我々がうっすらと自覚している願い。自殺とも自己嫌悪とも違う不愉快な破滅願望。
破壊衝動。
全人類に対する良心の自由に保障された殺害予告。
エゴイスティックな、とはいえ自我でなく無意識の解放ともいえるその願い。
そんな願望に駆られて、我々はしばしばメトロポリス破壊の夢を見る。
都市の壊滅。社会の混乱。世界の終わり。
破壊というテーマはあらゆるジャンル、数多くのメディアにおいて描かれてきた。
時には関東大震災や東日本大震災などの災害のメタファーとして、時には東京大空襲や原子爆弾への恨みとして、テロリズムとして、そして多くの作品にはエゴイスティックな破壊衝動が裏に隠されている。
街を壊したい。
諸星大二郎の短編である『影の街』という作品はこどものもの頃のそうした妄想をよく表した作品だ。こどもの妄想であればかなり納得のいくテーマだが、このこどもじみた発想はあらゆる作品に隠されていると聞いたらすこし戸惑うかもしれない。
今回はそんな破壊衝動をテーマにいくつかの作品をみていこう。
1・メタファーとしての破壊と純粋な破壊の楽しみ
ところで東京は幾度となく破壊されてきた都市だ。
だが、大きな力によって破壊されても、そこから再生というポジティブな感情を沸き立たせるのが日本的文化ともいえるだろう。
それは大火事ですべてを失ったはずの日本人たちの超然とした態度に驚かされた明治期のお雇い外国人ベルツが指摘していることだ。
そうした再生のイメージを伴った破壊は皆の好むテーマである。
今風の言葉で言えばグレートリセット願望がエンターテイメントに投射されているのであろうが、これは戦前に幾度と行われた破壊、そして戦後の復興、高度経済成長という日本経済の歴史の似姿でもあることは指摘するまでもないだろう。
戦後の復興期を描いた作品を上げていけばキリがないが、近年にて破壊と再生のテーマをうまくエンターテイメントに昇華させた作品としては、やはり『シン・ゴジラ』を挙げなくてはなるまい。
この作品はあきらかに東日本大震災と福島第一原発の大事故が作品に投影されている。
そしてそれは第五福竜丸事件とそして東京大空襲、原爆投下というイメージが初代ゴジラにおいて重ね合わされていたこととほとんど同じ構造である。
だが『ゴジラ』の公開は1954年。すでに戦争が終わって10年近く経っている。
たしかに戦争体験者にとってゴジラは核やアメリカ軍のメタファーとして映っただろう。
しかし戦後世代には?
ゴジラシリーズがその後メインターゲットにしていく子供世代にはどんな風に映ったのだろうか。
この問いについての答えは、その後のシリーズの展開を見ていけばわかるだろう。
ゴジラは2作目以降、戦争のメタファーなどではなくなっていく。
二作目『ゴジラの逆襲』ではアンギラスという敵怪獣が登場し、ゴジラとダイナミックな戦いを繰り広げる。
そして決定的だったのが3作目である『キングコング対ゴジラ』だ。
ゴジラ映画史上最大の観客を動員した本作はゴジラをプロレス的に消費するという方向に決定付けた。
そして作中で行われる破壊には意味などない。ただ破壊があるだけだ。
都市を舞台とした巨大なプロレスリングで怪獣たちが大暴れする。こどもたちは観客として巨大な怪獣たちが暴れまわるのを見てワクワクする。
そしてゴジラは破壊の化身から段々と破壊から人間を守る守護神として描き方が変化していく。そして傾向の強い時代をファンたちはヒーローゴジラと呼んでいる。
2・破壊に感情移入するための正義
そうしたゴジラから少し遅れて登場した『ウルトラマン』がゴジラの人気を奪って行ったことにはいくつかの理由があるように思える。
単純に毎週怪獣が暴れるのを見ることができるということが理由の一つである。
しかしウルトラマンが人間の形から変身するということ、そして変身後も人型でプロレスをするということも支持された理由なのではないだろうか。
人型であるということは模倣することが容易であるということである。
そして変身という儀式をすれば、簡単にウルトラマンになりきることが可能だ。
こどもたちはウルトラマンになりきって巨大化して、町を破壊しながら人々を守る。
正義のヒーローとは正義や仲間を脅かすものを暴力によって叩き潰すもののことを言う。
ヒーローモノのエンターテイメントは虚構の中で敵を想定することで、それを殲滅する必要を演出し、その暴力行為によって破壊衝動を満たす。
その暴力への欲望の理由付けとして正義や仲間というキーワードが利用されているだけなのだ。
そしてこれはプロレスの構造と、いやスポーツの構造とあまり変わらない。
倫理的な目線で見れば、平和の中、わざわざ争い、相手を倒す必要など本来はない。
スポーツにしろヒーローものにしろ、暴力衝動の発散である。そして視聴者が当事者に感情移入をすることでその多幸感を疑似体験する。
スポーツにおいてはルールそして観客、ヒーローものにおいては正義という建前があるために、暴力はスーパーエゴの抑圧を受けず、違和感なく受け入れられ、破壊願望が満たされることとなる。
3・ただ破壊を望む力 正義なき破壊
だが、建前が通用しなくなったらどうなのだろう。
正義に先立ち力がある。正義なき破壊衝動がある。
そうしたことを最初期に描いた作家が永井豪だ。
『マジンガーZ』において主人公は巨大ロボットという力を手に入れる。
神にも悪魔にもなれる力だと作中で言及されている。これは正義や悪に先立ち力があるということである。
『マジンガーZ』においては正義の心をもち、悪と戦う正義の方向へその力が選択される。
しかし同著者の『魔王ダンテ』そして『デビルマン』においては正義の建前がゆらいでいる。
『魔王ダンテ』という作品では神と悪魔というイメージが逆転している。
本作では悪魔と呼ばれる種族は地球の先住民であり、神は侵略者だ。
『ダンテ』においては初めに力をただ破壊衝動のみとして描く。
そこに正義はなく、人類を虐殺する、町を破壊する力としてのみ描かれる。
これは明らかに悪の力。悪魔になってしまった力だ。
しかし真相が明らかになるとそれまでの虐殺行為が正義としての意味を持つことになる。現人類とは侵略者である神の分身であったためだ。
『ダンテ』は正義と悪を単純に逆転させた作品だ。悪魔が正義の位置に置かれ、人類と神が悪に堕とされる。
しかし『デビルマン』はそこまで単純ではない。
『デビルマン』においてもデーモンは先住民として描かれる。
太古の昔、デーモンは神に醜いという理由で滅ぼされそうになる。
一度目の神の侵攻を撃退した後、デーモンたちは力を蓄えるために地下に潜り眠りにつくが、起きたときには地球は人間で溢れかえっていたのである。
そしてデーモンたちは神と同じ過ちを犯す。人類たちを駆除し滅びへと導こうとするのだ。
人類たちもデーモンや神と同じことをする。デーモンを恐れた人類は人間でもデーモンでもないデビルマンという半端モノたちを駆除しようとする。
主人公である不動明は最初は人類のために戦っていた。しかしデビルマンが人類と敵対し始めたときからその正義は揺らぎ始める。
親しい仲間が人類の疑心暗鬼に殺されていくなか、最後にヒロインである美樹だけは守ろうと決意する。この時点で正義という建前は消え去っている。
そして美樹が暴徒に惨殺されたと知り、不動明は人類を見限り暴徒を焼き尽くすのである。
人類滅亡後、デビルマンとデーモンはまた殺し合い、そして全滅する。
最後には神の軍団が天から降りてきて、すべてを無に帰すということがほのめかされて終わる。
『デビルマン』に正義はない。単純な正悪の逆転などではなく、すべての存在のエゴイスティックな破壊があっただけなのだ。
デビルマン以降、永井豪は単純な破壊衝動というテーマを取り扱うことになる。
それは元祖セカイ系ともいえるかもしれない『バイオレンスジャック』でもいいし、『凄ノ王』でもいい。そこでは性欲や暴力などあらゆる欲望と渾然一体となった破壊衝動が描かれる。
特に『凄ノ王』のラストはただすべてが破壊されるという正義も悪もない純粋な破壊だ。
これは打ち切りのようにも見えるかもしれないが、加筆されたバージョンにおいてもラストは変わらないままだ。
永井豪は破壊衝動を、善も悪もないただの破壊を描きたかったのだ。
永井豪は破壊という点では最も極端な作家といえるかもしれない。しかし彼のような正義なき破壊という衝動は倫理的な障壁に阻まれながらも、多くの作品に現れているように見える。
ちなみに正義の暴走による破壊というものもある。
それは例えば『伝説の巨人イデオン』に代表されるだろう。
この作品はエウリピデス的なデウスエクスマキナを逆転させ、抽象な正義の力が最後すべてを吹き飛ばす。構造的には『デビルマン』において神の軍勢がすべてを無に帰さんとしたのと同じだが、こちらはそこまで醜悪なものとして描かれていない。
ここからは正義なき破壊衝動がどのような建前を隠れみのにしてきたのかを見ていこう。
4・豊かな東京を破壊する
80年代も後半になると、日本は世界的にも最も豊かな国になる。
ものであふれ返った東京は地上でもっとも栄えた地区となった。
なんでもあるメトロポリス東京。それを冒頭から吹っ飛ばした作品が、みなさんご存じの『AKIRA』だ。
『AKIRA』において「新型爆弾」によって破壊された東京のイメージ。それは『ブレードランナー』のようないかにもオリエンタリズムに満ちたサイバーパンクな世界観なわけだが、そこに60年代的な要素を数多く読み取ることができる。
学生運動のような古臭いデモ隊、薄汚い長屋、そしてなんといってもオリンピック。
もちろんそれらを大友克洋はユートピアとして描いているわけではないが、80年代の都市開発をすべて破壊した末に生まれたのが昭和のみすぼらしい風景だったという感性は注目に値する。
そしてそうした80年代に失われていく昭和というイメージから、軽薄な近代化への怒り、そして破壊を試みたのが『劇場版パトレイバー』だ。
『劇場版パトレイバー』では天才プログラマーである帆場暎一は東京を破壊しようと試みる。破壊の動機となるのは社会への怒りだ。
彼は戦後の街並みを破壊し、都市開発を進めることへの怒り、開発によって自身の故郷を奪われることへの悲しみから、町を破壊しようと試みる。
良き社会を作るという再生の意味はここにはない。正義でも悪でもなく怒りからくる破壊衝動はただ現代社会そのものにむけられるのだ。
5・破壊の対象の再抽象化
こうした怒りと破壊。現代社会への破壊衝動は様々な作品で描かれることとなる。それが時には地球全体であったり、増えすぎた人類であったり、社会の欺瞞だったりする。
そしてその衝動が社会性をラジカルに突き詰めた結果として、また永井豪的な純粋な破壊衝動へと戻っていく。
『新世紀エヴァンゲリオン』においてはすべての問題を人間同士の不理解に求め、その障壁となる細胞膜を破壊することで人類を補完しようと試みる。
最後には細胞膜を認め他者と生きることを選択するわけだが、結局世界は破滅する。
主人公の個人的な人間不信がそのまま世界にまで拡張した結果、人類を滅亡させるのだ。
そして90年代後半以降、世界の破滅を描いた、通称セカイ系の作品群が数多く登場することになる。この時代の破壊衝動の面白いところは、感情移入される主人公よりもヒロインが力を持っているところだ。
そのため主人公の意志が直接世界を滅ぼす暴力でないところが、永井豪やエヴァと大きく異なるところである。主人公が激情に駆られても、彼らには何の力もない。
こうした作品ではしばしば世界か彼女かを選択させられるが、感情に反する結果になることも多い。
そして世界が滅んだり、彼女が犠牲になることで世界が救われたりする。
どちらにせよ、そうした作品ではセンチメンタルな喪失感が描かれ、平均的な青春小説のように主人公の成長をもって幕を閉じたり、滅んだ世界での死にゆく二人が描かれる。
(永井豪エッセンスを小学生女子でやりました。)
セカイ系におけるヒロインか世界かという選択。
これは結局、破壊衝動による人類の殲滅という欲望と倫理観による公共への奉仕の選択である。
その選択を迫られる時、作中ではヒロインを犠牲にする世界への怒りが描写され、読者はその感情を自身の世界への怒りとリンクさせる。
社会の理不尽で完璧な正論は守るべき理念であるが、そうした完璧な正義は我々のもつ衝動を制限する。こうした作品において、我々の持つ漠然とした社会への怒りと不満はヒロインの悲劇というわかりやすいメディアによって具現化され、我々は世界をすんなり憎むことが可能になる。
(本来心に秘めている世界への怒りが、作品内の極端な状況で浮かび上がり、破壊衝動が明るみにでると言った方がいいか。)
そしてその抽象的な怒りが破壊の動機になる。
しかし明るみに出た衝動は多くの作品においては臨界寸前まで膨らむが、不発のまま終わっていく。
それは『イリヤ』のようにすれ違いから機能不全に陥ったり、『エルフェンリート』のように衝動を抑え込み世界を選択することもある。抽象的な怒りはスーパーエゴの抑圧の前に散ってしまうのだ。
6・『天気の子』 具体的な怒りと抽象的な対象
だがそうした破壊衝動を肯定してしまう作品もある。
例えば新海誠の『天気の子』などはその典型例だ。
この作品では主人公が東京を破滅させヒロインを選ぶ。だが表層的でチープな恋愛感情の裏側にはやはり破壊衝動がある。
ここで描かれる東京の破壊は喪失としてではない。
その選択には『劇場版パトレイバー』と似た、現代社会への具体的な怒りが込められているからだ。彼の怒りは東京の理不尽さ、冷たさに向かっている。家出少年や身元を亡くした少女たちには都心は非常に厳しい環境である。
彼らは東京を破壊するが、それは代償などではない。ただ怒りと破壊衝動の結果として破壊されたのだ。
『イリヤ』とは違い、大人も主人公の選択に手を貸す。彼らもまた現代社会への怒りと破壊衝動をむき出しに破壊に加担するのだ。
エゴイスティックな破壊というテーマは『新劇場版ヱヴァンゲリヲン破』も同じだが、それは崩壊後を描く『Q』において糾弾され、否定される。
破壊の結末をグロテスクに描いたのは『進撃の巨人』だ。
仲間を守るために全世界を滅ぼそうとする。そしてそれは仲間たちによって否定される。そしてその行為は不信感を世界に植え付け、結局争いはなくならない。
破壊行為は完全に否定される。
だが『天気の子』ではそうではない。
埋め立て前の東京を持ち出し、もともとは海だったと開き直る。
我々を苦しめる近代文明を具体例に描くことで倫理を否定し、破壊は肯定される。
破壊衝動をもった我々はその結果に満足する。
エンターテイメントとして、ユートピアとして素晴らしいポルノグラフィーだ。
7・破壊衝動と付き合う
だがそれは虚構でしかない。世界を破滅させる力の選択権など本当は存在しない。
あったとしてもそんな力を持つことができるのは、ロシアの大統領とアメリカの大統領くらいのものである。
衝動はあっても我々は無力であり、世界を破滅させることも、その衝動を抑えて世界を救うことを選択するなんてことも起こりえない。
もしくはテロリストになり、衝動を解消したとしてもそこに残るのは悲しい結末でしかない。
自身の肥大しきった妄想と現実をどう折り合いをつけるか。そうしたテーマを扱ったのが『AURA』や『素晴らしき日々』だろう。
これらの作品は虚構や衝動と向き合いながらも、虚構や衝動を捨てるという極論には至らない。
倫理による衝動の抑圧でもなく、衝動の解放でもない。
地味に無能に生きていくための第三の道を示してくれるのだ。我々の破壊衝動は社会を壊すことはできないが、人に迷惑くらいならかけることができてしまう。そしてむき出しになればたちまち社会正義の名の下に裁かれる悲しい運命でありながら、腹の下から湧き上がってくる厄介なものだ。
しかし衝動の抑圧はおおくのストレスを伴う。
そして抑圧以外の向き合いかたをこうした作品が考えさせてくれるのだ。
終わりに
我々に潜む破壊衝動。口では否定しても多くのひとにはそうした願望が眠っている。
世界を破滅させる作品はそうした欲望を満たすとともに、我々の中の危うさに目を向けるよい機会となる。
ニュースで現実の都市が廃墟になっている様をみても、胸糞悪くなるだけである。
しかし現実感覚の裏側にはある人々の破壊への渇望があるのだろう。
だから作品内で世界が破滅するとスッとする。知っている都市が爆破されるのをみると嬉しく思う。だがそれは虚構の中だけの話ということにしなければならない。