Z世代の代表 作品紹介

一号とRYANAがZ世代ならではの視点でさまざまな作品を紹介します。

2022年11月、人類が80億を超えたから、今から世界は田中ロミオ記念日

アッサラームアライクム

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80億超えたらしいです。早いですね。

わたしが小さい時なんて、人類60億なんて歌われていたのにもう80億。


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まあ世界中に虫は人間の何万倍もいるわけですし、蟻ですら2京匹もいるんで、人類なんて本当に虫けら以下の存在なのは間違いないわけです。

しかし我々人類は霊長類(笑)なので、せいぜいチンパンジー程度の個体数と比べなくてはフェアではないかもしれません。

そう考えるとチンパンジーはせいぜい10数万、つまりチンパンジーに比べ人類は8万倍も増殖しています。やはり異常な生き物であることには変わりないのでしょう。

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とはいえ人類の異常発生は別に驚くべきことでもなく、割と予想されてきたことだったりします。しかし異常は異常、やっぱりその裏にSF的ななにかを感じなくもないのが、大量発生と共に産まれたサイエンス・フィクションのロジックであると言えます。

 

というわけで『ソイレント・グリーン』の紹介といかないのが本ブログのひねくれたところ。

なぜかここで田中ロミオをおすすめするのがZ世代の代表です。

 

ところで田中ロミオと言えば、なにを思い浮かべるのでしょうか。

これは結構人によってまちまちで、例えば妹ブーム黎明期に妹を守ってあげたいと思った『加奈 いもうと』派のお兄ちゃんたち、『家族計画』をプレイして軽快なギャグと強く生きる高屋敷家を見て、疑似家族を疑似体験したロリコンたち、『CROSS†CHANNEL』に入り込み過ぎて、毒電波をネットに発信する社会不適合者たち、コンプレックス学園ラブコメのパイオニアである『AURA』をバイブルとする元中二病患者たち、鍵っこなのになぜか『Rewrite』が好きなシンプルな変わり者たち、そして『人類が衰退しました』に魅せられたちょっとマイナー志向なアニメオタクもとい妖精さんたち。

もちろん『星空☆ぷらねっと』が一番好きだという人もいるでしょうが、メインはこんな感じでしょう。

それにしてもここまでいろいろな人種に様々な角度からマイナーながらも愛された作家はあんまりいないかもしれません。

そしてその発掘したジャンルの広さ、そしてフォロワーの多さから、わたしは勝手に00年代オタク文化の裏ボスだと思っています。

 

 

 

彼の魅力は何といってもその文章。あの軽快なリズム感と、圧倒的教養に裏打ちされたウィットはだれも真似することができません。

 

そんな田中ロミオですが人類80億記念でおすすめしたいのはやっぱりこれ、『最果てのイマ

人類が80億を超えると何が起こるのか。

そんなことを資源問題というよりも、メディア論や他者論、社会思想、情報科学の観点から拾い上げたSFです。

とはいえこのゲーム。

魅力を説明してしまうと、かなりネタバレになってしまうんです。

こんな人におすすめということでキーワードだけ。

マクルーハンのメディア論とドーキンスのような機械的な人類史観。

社会契約と文化人類学、物語の主人公論。

物語の語りとループものの欠点をついたノベルゲームのメタ構造。

平たく内容を説明しますと、前半部分はジュブナイルアドベンチャーの名に恥じない、近未来青春SF。思春期らしい他者との接し方だとか、距離感だとかそういったことをテーマに、没落していく国のアンニュイな雰囲気を漂わせながら進む青少年たちの聖域についてのお話。

後半部分は戦争編です。戦争といっても敵はきっと皆さんの予想もつかないものです。しかし馴染み深いものでもあります。多くのひとはそれに苦しめられたり、押しつぶされそうになったこともあるようなものでしょう。

そしてネットによって世界の距離が狭まり、80億の人類がお互い簡単につながれるようになった時代に何がおこったのか。非常に示唆的な展開があなたを待っているはずです。

シナリオはゲームとして破格の難解さを誇ります。

絶対に初見はなんのこっちゃってなります。

難解な点としては、単純にSFレベルが高いこと。これはある程度の生物学、情報科学精神分析についてのSF的知識がなくてはついていけません。造語も多いです。しかし造語は恣意的なものではなく、かなりロジカルに作られているので、よく考えて取り組みましょう。

次に難解なのはプロット。あんまりここで説明するとネタバレになるので、抽象度マックスで例えると、『君の名は』のプロットを100倍くらい難解にした感じです。

そしてなんといっても厄介なのは、SF的な設定を社会的な現状であると誤読させてくる語りです。信頼できない語り手であることはもちろん、かなりバイアスのかかった語りなので、整理するのがかなり難しいです。

 

とまあこんな難解な作品ですが間違いなく名作。

わたしはあんまり作品の良し悪しについてこの場で言いたくはないのですが、美少女ゲームの中で最も優れている作品は何かと問われれば、間違いなく『最果てのイマ』と答えます。

時点で『マブラヴ』か『ランスシリーズ』です。

 

 

ちなみに『最果てのイマ』をプレイした後におすすめしたいのが、『人類は衰退しました』。

田中ロミオの人類史観を知ってから本書を熟読すると、この作中が文化についての本であるとよくわかるでしょう。

 

別のベクトルですが『終のステラ』も彼の人類史観が今はやりのAI史観などと重なっていい味を出しています。ぜひアニメ化して欲しい作品です。

 

 

というわけで今回は田中ロミオと『最果てのイマ』についてでした。

最果てのイマ』は過小評価されすぎな作品だとわたしは思います。

この機会にぜひ手にとってやってみましょう。

注意点としましては、PC版のオリジナルもフルボイス版もWindows10で動きません。XPで起動するか、おとなしくDMMでcompleteを買ってください。

わたしはXP搭載のパソコンをわざわざ買いました。

意外に重宝しています。

そんな感じで今回は終わりです。それではまた来月お会いしましょう。

 

マアッサラーマ!!!

 

 

『世界を破滅させたいという願い 世界を破壊する作品たち ゴジラから天気の子まで』

こどもじみた考えである。

非倫理的で不謹慎な、道徳的に許されない想いである。

だが我々がうっすらと自覚している願い。自殺とも自己嫌悪とも違う不愉快な破滅願望。

破壊衝動。

全人類に対する良心の自由に保障された殺害予告。

エゴイスティックな、とはいえ自我でなく無意識の解放ともいえるその願い。

そんな願望に駆られて、我々はしばしばメトロポリス破壊の夢を見る。

都市の壊滅。社会の混乱。世界の終わり。

 

破壊というテーマはあらゆるジャンル、数多くのメディアにおいて描かれてきた。

時には関東大震災東日本大震災などの災害のメタファーとして、時には東京大空襲原子爆弾への恨みとして、テロリズムとして、そして多くの作品にはエゴイスティックな破壊衝動が裏に隠されている。

 

街を壊したい。

諸星大二郎の短編である『影の街』という作品はこどものもの頃のそうした妄想をよく表した作品だ。こどもの妄想であればかなり納得のいくテーマだが、このこどもじみた発想はあらゆる作品に隠されていると聞いたらすこし戸惑うかもしれない。

 

今回はそんな破壊衝動をテーマにいくつかの作品をみていこう。

 

1・メタファーとしての破壊と純粋な破壊の楽しみ

ところで東京は幾度となく破壊されてきた都市だ。

だが、大きな力によって破壊されても、そこから再生というポジティブな感情を沸き立たせるのが日本的文化ともいえるだろう。

それは大火事ですべてを失ったはずの日本人たちの超然とした態度に驚かされた明治期のお雇い外国人ベルツが指摘していることだ。

 

 

そうした再生のイメージを伴った破壊は皆の好むテーマである。

今風の言葉で言えばグレートリセット願望がエンターテイメントに投射されているのであろうが、これは戦前に幾度と行われた破壊、そして戦後の復興、高度経済成長という日本経済の歴史の似姿でもあることは指摘するまでもないだろう。

戦後の復興期を描いた作品を上げていけばキリがないが、近年にて破壊と再生のテーマをうまくエンターテイメントに昇華させた作品としては、やはり『シン・ゴジラ』を挙げなくてはなるまい。

 

この作品はあきらかに東日本大震災福島第一原発の大事故が作品に投影されている。

そしてそれは第五福竜丸事件とそして東京大空襲、原爆投下というイメージが初代ゴジラにおいて重ね合わされていたこととほとんど同じ構造である。

ゴジラ

ゴジラ

  • 宝田 明
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だが『ゴジラ』の公開は1954年。すでに戦争が終わって10年近く経っている。

たしかに戦争体験者にとってゴジラは核やアメリカ軍のメタファーとして映っただろう。

しかし戦後世代には?

ゴジラシリーズがその後メインターゲットにしていく子供世代にはどんな風に映ったのだろうか。

この問いについての答えは、その後のシリーズの展開を見ていけばわかるだろう。

ゴジラは2作目以降、戦争のメタファーなどではなくなっていく。

二作目『ゴジラの逆襲』ではアンギラスという敵怪獣が登場し、ゴジラとダイナミックな戦いを繰り広げる。

そして決定的だったのが3作目である『キングコング対ゴジラ』だ。

 

ゴジラ映画史上最大の観客を動員した本作はゴジラをプロレス的に消費するという方向に決定付けた。

そして作中で行われる破壊には意味などない。ただ破壊があるだけだ。

都市を舞台とした巨大なプロレスリングで怪獣たちが大暴れする。こどもたちは観客として巨大な怪獣たちが暴れまわるのを見てワクワクする。

そしてゴジラは破壊の化身から段々と破壊から人間を守る守護神として描き方が変化していく。そして傾向の強い時代をファンたちはヒーローゴジラと呼んでいる。

 

2・破壊に感情移入するための正義

そうしたゴジラから少し遅れて登場した『ウルトラマン』がゴジラの人気を奪って行ったことにはいくつかの理由があるように思える。

 

単純に毎週怪獣が暴れるのを見ることができるということが理由の一つである。

しかしウルトラマンが人間の形から変身するということ、そして変身後も人型でプロレスをするということも支持された理由なのではないだろうか。

人型であるということは模倣することが容易であるということである。

そして変身という儀式をすれば、簡単にウルトラマンになりきることが可能だ。

こどもたちはウルトラマンになりきって巨大化して、町を破壊しながら人々を守る。

正義のヒーローとは正義や仲間を脅かすものを暴力によって叩き潰すもののことを言う。

ヒーローモノのエンターテイメントは虚構の中で敵を想定することで、それを殲滅する必要を演出し、その暴力行為によって破壊衝動を満たす。

その暴力への欲望の理由付けとして正義や仲間というキーワードが利用されているだけなのだ。

そしてこれはプロレスの構造と、いやスポーツの構造とあまり変わらない。

倫理的な目線で見れば、平和の中、わざわざ争い、相手を倒す必要など本来はない。

スポーツにしろヒーローものにしろ、暴力衝動の発散である。そして視聴者が当事者に感情移入をすることでその多幸感を疑似体験する。

スポーツにおいてはルールそして観客、ヒーローものにおいては正義という建前があるために、暴力はスーパーエゴの抑圧を受けず、違和感なく受け入れられ、破壊願望が満たされることとなる。

 

 

3・ただ破壊を望む力 正義なき破壊

だが、建前が通用しなくなったらどうなのだろう。

正義に先立ち力がある。正義なき破壊衝動がある。

そうしたことを最初期に描いた作家が永井豪だ。

 

マジンガーZ』において主人公は巨大ロボットという力を手に入れる。

神にも悪魔にもなれる力だと作中で言及されている。これは正義や悪に先立ち力があるということである。

マジンガーZ』においては正義の心をもち、悪と戦う正義の方向へその力が選択される。

しかし同著者の『魔王ダンテ』そして『デビルマン』においては正義の建前がゆらいでいる。

 

魔王ダンテ』という作品では神と悪魔というイメージが逆転している。

本作では悪魔と呼ばれる種族は地球の先住民であり、神は侵略者だ。

『ダンテ』においては初めに力をただ破壊衝動のみとして描く。

そこに正義はなく、人類を虐殺する、町を破壊する力としてのみ描かれる。

これは明らかに悪の力。悪魔になってしまった力だ。

しかし真相が明らかになるとそれまでの虐殺行為が正義としての意味を持つことになる。現人類とは侵略者である神の分身であったためだ。

『ダンテ』は正義と悪を単純に逆転させた作品だ。悪魔が正義の位置に置かれ、人類と神が悪に堕とされる。

 

しかし『デビルマン』はそこまで単純ではない。

 

デビルマン』においてもデーモンは先住民として描かれる。

太古の昔、デーモンは神に醜いという理由で滅ぼされそうになる。

一度目の神の侵攻を撃退した後、デーモンたちは力を蓄えるために地下に潜り眠りにつくが、起きたときには地球は人間で溢れかえっていたのである。

そしてデーモンたちは神と同じ過ちを犯す。人類たちを駆除し滅びへと導こうとするのだ。

人類たちもデーモンや神と同じことをする。デーモンを恐れた人類は人間でもデーモンでもないデビルマンという半端モノたちを駆除しようとする。

主人公である不動明は最初は人類のために戦っていた。しかしデビルマンが人類と敵対し始めたときからその正義は揺らぎ始める。

親しい仲間が人類の疑心暗鬼に殺されていくなか、最後にヒロインである美樹だけは守ろうと決意する。この時点で正義という建前は消え去っている。

そして美樹が暴徒に惨殺されたと知り、不動明は人類を見限り暴徒を焼き尽くすのである。

人類滅亡後、デビルマンとデーモンはまた殺し合い、そして全滅する。

最後には神の軍団が天から降りてきて、すべてを無に帰すということがほのめかされて終わる。

デビルマン』に正義はない。単純な正悪の逆転などではなく、すべての存在のエゴイスティックな破壊があっただけなのだ。

 

デビルマン以降、永井豪は単純な破壊衝動というテーマを取り扱うことになる。

それは元祖セカイ系ともいえるかもしれない『バイオレンスジャック』でもいいし、『凄ノ王』でもいい。そこでは性欲や暴力などあらゆる欲望と渾然一体となった破壊衝動が描かれる。

特に『凄ノ王』のラストはただすべてが破壊されるという正義も悪もない純粋な破壊だ。

 

これは打ち切りのようにも見えるかもしれないが、加筆されたバージョンにおいてもラストは変わらないままだ。

永井豪は破壊衝動を、善も悪もないただの破壊を描きたかったのだ。

 

永井豪は破壊という点では最も極端な作家といえるかもしれない。しかし彼のような正義なき破壊という衝動は倫理的な障壁に阻まれながらも、多くの作品に現れているように見える。

 

ちなみに正義の暴走による破壊というものもある。

それは例えば『伝説の巨人イデオン』に代表されるだろう。

 

この作品はエウリピデス的なデウスエクスマキナを逆転させ、抽象な正義の力が最後すべてを吹き飛ばす。構造的には『デビルマン』において神の軍勢がすべてを無に帰さんとしたのと同じだが、こちらはそこまで醜悪なものとして描かれていない。

ここからは正義なき破壊衝動がどのような建前を隠れみのにしてきたのかを見ていこう。

 

4・豊かな東京を破壊する

80年代も後半になると、日本は世界的にも最も豊かな国になる。

ものであふれ返った東京は地上でもっとも栄えた地区となった。

なんでもあるメトロポリス東京。それを冒頭から吹っ飛ばした作品が、みなさんご存じの『AKIRA』だ。

AKIRA』において「新型爆弾」によって破壊された東京のイメージ。それは『ブレードランナー』のようないかにもオリエンタリズムに満ちたサイバーパンクな世界観なわけだが、そこに60年代的な要素を数多く読み取ることができる。

学生運動のような古臭いデモ隊、薄汚い長屋、そしてなんといってもオリンピック。

もちろんそれらを大友克洋ユートピアとして描いているわけではないが、80年代の都市開発をすべて破壊した末に生まれたのが昭和のみすぼらしい風景だったという感性は注目に値する。

そしてそうした80年代に失われていく昭和というイメージから、軽薄な近代化への怒り、そして破壊を試みたのが『劇場版パトレイバー』だ。

 

『劇場版パトレイバー』では天才プログラマーである帆場暎一は東京を破壊しようと試みる。破壊の動機となるのは社会への怒りだ。

彼は戦後の街並みを破壊し、都市開発を進めることへの怒り、開発によって自身の故郷を奪われることへの悲しみから、町を破壊しようと試みる。

良き社会を作るという再生の意味はここにはない。正義でも悪でもなく怒りからくる破壊衝動はただ現代社会そのものにむけられるのだ。

 

5・破壊の対象の再抽象化

こうした怒りと破壊。現代社会への破壊衝動は様々な作品で描かれることとなる。それが時には地球全体であったり、増えすぎた人類であったり、社会の欺瞞だったりする。

そしてその衝動が社会性をラジカルに突き詰めた結果として、また永井豪的な純粋な破壊衝動へと戻っていく。

 

新世紀エヴァンゲリオン』においてはすべての問題を人間同士の不理解に求め、その障壁となる細胞膜を破壊することで人類を補完しようと試みる。

最後には細胞膜を認め他者と生きることを選択するわけだが、結局世界は破滅する。

主人公の個人的な人間不信がそのまま世界にまで拡張した結果、人類を滅亡させるのだ。

 

そして90年代後半以降、世界の破滅を描いた、通称セカイ系の作品群が数多く登場することになる。この時代の破壊衝動の面白いところは、感情移入される主人公よりもヒロインが力を持っているところだ。

そのため主人公の意志が直接世界を滅ぼす暴力でないところが、永井豪エヴァと大きく異なるところである。主人公が激情に駆られても、彼らには何の力もない。

こうした作品ではしばしば世界か彼女かを選択させられるが、感情に反する結果になることも多い。

そして世界が滅んだり、彼女が犠牲になることで世界が救われたりする。

 

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どちらにせよ、そうした作品ではセンチメンタルな喪失感が描かれ、平均的な青春小説のように主人公の成長をもって幕を閉じたり、滅んだ世界での死にゆく二人が描かれる。

(永井豪エッセンスを小学生女子でやりました。)

セカイ系におけるヒロインか世界かという選択。

これは結局、破壊衝動による人類の殲滅という欲望と倫理観による公共への奉仕の選択である。

その選択を迫られる時、作中ではヒロインを犠牲にする世界への怒りが描写され、読者はその感情を自身の世界への怒りとリンクさせる。

社会の理不尽で完璧な正論は守るべき理念であるが、そうした完璧な正義は我々のもつ衝動を制限する。こうした作品において、我々の持つ漠然とした社会への怒りと不満はヒロインの悲劇というわかりやすいメディアによって具現化され、我々は世界をすんなり憎むことが可能になる。

(本来心に秘めている世界への怒りが、作品内の極端な状況で浮かび上がり、破壊衝動が明るみにでると言った方がいいか。)

そしてその抽象的な怒りが破壊の動機になる。

しかし明るみに出た衝動は多くの作品においては臨界寸前まで膨らむが、不発のまま終わっていく。

それは『イリヤ』のようにすれ違いから機能不全に陥ったり、『エルフェンリート』のように衝動を抑え込み世界を選択することもある。抽象的な怒りはスーパーエゴの抑圧の前に散ってしまうのだ。

 

 

6・『天気の子』 具体的な怒りと抽象的な対象

だがそうした破壊衝動を肯定してしまう作品もある。

例えば新海誠の『天気の子』などはその典型例だ。

 

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
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この作品では主人公が東京を破滅させヒロインを選ぶ。だが表層的でチープな恋愛感情の裏側にはやはり破壊衝動がある。

ここで描かれる東京の破壊は喪失としてではない。

その選択には『劇場版パトレイバー』と似た、現代社会への具体的な怒りが込められているからだ。彼の怒りは東京の理不尽さ、冷たさに向かっている。家出少年や身元を亡くした少女たちには都心は非常に厳しい環境である。

彼らは東京を破壊するが、それは代償などではない。ただ怒りと破壊衝動の結果として破壊されたのだ。

イリヤ』とは違い、大人も主人公の選択に手を貸す。彼らもまた現代社会への怒りと破壊衝動をむき出しに破壊に加担するのだ。

 

エゴイスティックな破壊というテーマは『新劇場版ヱヴァンゲリヲン破』も同じだが、それは崩壊後を描く『Q』において糾弾され、否定される。

破壊の結末をグロテスクに描いたのは『進撃の巨人』だ。

仲間を守るために全世界を滅ぼそうとする。そしてそれは仲間たちによって否定される。そしてその行為は不信感を世界に植え付け、結局争いはなくならない。

破壊行為は完全に否定される。

 

だが『天気の子』ではそうではない。

埋め立て前の東京を持ち出し、もともとは海だったと開き直る。

我々を苦しめる近代文明を具体例に描くことで倫理を否定し、破壊は肯定される。

破壊衝動をもった我々はその結果に満足する。

エンターテイメントとして、ユートピアとして素晴らしいポルノグラフィーだ。

 

 

雫

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7・破壊衝動と付き合う

だがそれは虚構でしかない。世界を破滅させる力の選択権など本当は存在しない。

あったとしてもそんな力を持つことができるのは、ロシアの大統領とアメリカの大統領くらいのものである。

衝動はあっても我々は無力であり、世界を破滅させることも、その衝動を抑えて世界を救うことを選択するなんてことも起こりえない。

もしくはテロリストになり、衝動を解消したとしてもそこに残るのは悲しい結末でしかない。

 

自身の肥大しきった妄想と現実をどう折り合いをつけるか。そうしたテーマを扱ったのが『AURA』や『素晴らしき日々』だろう。

 

これらの作品は虚構や衝動と向き合いながらも、虚構や衝動を捨てるという極論には至らない。

倫理による衝動の抑圧でもなく、衝動の解放でもない。

地味に無能に生きていくための第三の道を示してくれるのだ。我々の破壊衝動は社会を壊すことはできないが、人に迷惑くらいならかけることができてしまう。そしてむき出しになればたちまち社会正義の名の下に裁かれる悲しい運命でありながら、腹の下から湧き上がってくる厄介なものだ。

しかし衝動の抑圧はおおくのストレスを伴う。

そして抑圧以外の向き合いかたをこうした作品が考えさせてくれるのだ。

 

 

終わりに

我々に潜む破壊衝動。口では否定しても多くのひとにはそうした願望が眠っている。

世界を破滅させる作品はそうした欲望を満たすとともに、我々の中の危うさに目を向けるよい機会となる。

ニュースで現実の都市が廃墟になっている様をみても、胸糞悪くなるだけである。

しかし現実感覚の裏側にはある人々の破壊への渇望があるのだろう。

だから作品内で世界が破滅するとスッとする。知っている都市が爆破されるのをみると嬉しく思う。だがそれは虚構の中だけの話ということにしなければならない。

 

☆☆☆オタクの制服JK信仰を叩き切る!!女子高生が登場しない作品☆☆☆

お久しぶりです。

一号です。

わたしにしては珍しく今回はアニメ・漫画の話題について。

正直に言いましょう。オタク批判なんてあんまりしたくないんですけれど、日本のアニメ・漫画のヒロインってJK多すぎません?

JKじゃなくても大体ヒロインは12~18歳くらいの間であることが多いのは確かです。

中には17歳が女性で最も魅力的な年齢だなんて乱暴な言説もあったりして、本当になにもわかってないなって思います。

それに何が気に入らないかって、そのうちの結構な割合でセーラー服やらブレザーやら学校の制服を着てることです

わたしにとって制服なんて女性の魅力を半減させる衣装でしかないです。

性格や生い立ち、自己評価や彼女たちが目指しているスタイルの奥深さを表すファッションの要素が、制服みたいな画一的なイメージに押し込められていては魅力半減です。

制服少女を選択する意味がわからないです。

そもそも10代中盤の女の子ばかり登場するっていうのも多様性がない。

思春期を終えたくらいの年頃の女の子のキャラクターだけでは、扱えないテーマも沢山あります。

人生は思ったより長いわけですし、それなら100歳の老女だって魔女としてでなくヒロインとして登場することだってあっていいはずです。

 

 

とはいえ、漫画やアニメの主な視聴者は10代から30代くらいまで。さすがに100歳のヒロインではいろいろと難しいこともあるはずです。

それにやっぱりヒロインには「萌え」要素が必要であるというのは、致し方ないことであるとわたしは考えます。

それはドラマに北村匠海吉沢亮が登場するのと同じことでしょう。

ただ30代も見ているということなら、だいたいアラサーくらいまでのヒロインには萌えることが可能なはずですし、大人がJKに萌えるよりも断然健全だと思われます。

 

ということで、今回は制服JKが登場しない作品を紹介していきたいと思います。

(今回は『雪女』のような官能とエロスの蠱惑的な魅力のある作品は対象外です。なんかオタク向けって感じじゃないので。)

 

SPY×FAMILY』

最近のアニメの唯一の希望と思いきや、『チェンソーマン』も制服JK出てこないですね。

ただ『チェンソ』はあんま年齢の概念関係ない作品なので今回は除外させていただきます。(たぶんパワーちゃんは人間換算だと18くらいなんじゃないかな)

SPY』のヒロインはみなさんご存じヨルさん。年齢はなんと27歳!

いいですね。スタイルもモデルみたいに抜群です。ヨルさんはアラサーヒロイン界の希望と言ってもいいでしょう。

ちなみにわたしはヨルさんだけでなく、フィオナも大好きです。彼女の年齢は分かりませんが、少なくとも10代ではないはず。(10代であの魅力は出せないでしょう。)

この作品の流行がJKヒロイン時代の黄昏を意味することを願っています。

 

 

『気をつけなよ、お姉さん。』

最近どはまりした漫画です。百合です。

主人公は23歳のOL。ヨルさんはじめ20代後半のヒロインからすればちょっと若いですが、一応非JKなので今回のテーマからはそれていないはずです。

主人公の上司として25歳のお姉さんキャラも出てきます。

運動不足解消のためプールに行った主人公がおぼれそうになった時に、スタイル抜群(身長172㎝)の美女に助けられるというところから物語は始まります。

美女のイケメンムーブに主人公は惹かれていくのですが、あることが障害になっていて、なかなか踏み込むことができません。

ところで、高身長ヒロインっていいですよね。背が高くてかっこいい女性ってめちゃくちゃ憧れます。男好きのする清楚かわいい系ってわたしはあんまり好きじゃなくて、高身長イケメン女子キャラクターが流行ってくれたらなって思います。

 

『2DK、Gペン、目覚まし時計。』

わたしが地味に好きな作品です。また百合です。

この作品同居百合系の作品なのですが、ヒロインはそれぞれ25歳と27歳。

有能なOLとだらしない漫画家のコンビの関係はみてて飽きないですが、他にも同僚OLとか出てきたりして、アラサーヒロインたちの魅力が存分につまった作品になっております。

意識高い系萌えという新しいジャンルを開拓した作品でもあります。

これをよんだらあなたもきっと意識高い系が可愛く見えてくるはずです。

 

 

そして同居系百合と言えばこの作品も

『お姉さんは女子小学生に興味があります。』

同居しているのは、高校の非常勤教師の主人公28歳とミュージシャンの先輩29歳。百合です。

もうこの時点でなかなかいい雰囲気ですよね。

ヨルさんよりも年上のキャラ2人!しかもこの作品隣人の人妻キャラが33歳だったりとか、ヒロインたちの年齢結構高めなんですよ。()

ただ少し注意しなければならないのが、主人公が高校教師なので教え子のキャラクターがJKなことですかね。ただ基本的にはその子たちは脇役なので、メインヒロインは非JK!これは安心です。()

 

 

 

 

 

そろそろ本性を現します。わたしはJKや制服ヒロインアンチなだけなのです。

先ほども述べましたが、わたしが漫画やアニメのヒロインに重視するのは、キャラクターのファッションやお化粧。そしてそこから見えてくるそのキャラクターの生い立ちや性格、そして生き様を感じるということ。

つまりアラサーヒロインじゃなくてもいいわけです。

誤解しないでもらいたいのは、上記のヒロインたちが好きというのは本当です。

だけれども上記の作品に登場するアラサーヒロインでも、JKでもないヒロインたちも、非常に魅力的なキャラクターです。

 

例えば『SPY』のアーニャ

昨今の集英社系のヒロインの中でも最も人気なキャラクターの一人でしょう。しかし彼女は制服系キャラクターなのでここでは除外します。(別にきらいなわけではないよ。)

 

『気をつけなよ、お姉さん。』のイケメン美女は実は10歳です。

いやいやあり得んだろって思いますが、漫画なのでまあ気にしない方向で。

(作中でも言われてますし)

彼女の魅力は時折見せる子供っぽさにあると思います。彼女どう見ても20代にしか見えません。しかしちょっとしたしぐさが子供っぽかったり、子どもと一緒にあそんだりしているギャップはなかなかいいです。

ファッションに関しては、冬になっても半袖で過ごしたり、わりといつもおんなじ恰好でいたりするのが少し残念ポイントです。

でも主人公の葛藤だとか、まいちゃんが無邪気ながらなにかを感じ取っていたりするのは結構こころに響きます。一読の価値ありです。

 

 

この作品については…

正直これは倫理観ぶっ飛んでんなって思います。

まずヒロインの年齢がアーニャと同じなんですよ。さすがにきもいです。それに最後は逮捕エンドにしてもらいたいってくらい主人公がやばいです。9割くらい犯罪者です。ドン引きする内容です。(でも嫌いじゃない)

ただキャラクターの衣装や絵柄はとってもかわいいので、非JKヒロイン好きの人なら読む価値ありますよ。

ちなみに主人公と同居している29歳ミュージシャンが一番の推しキャラです。アラサーヒロイン推しは本当です。

 

さて本性を現したところで最後の作品。

今回紹介するなかでも、わたしが最もおすすめする作品はこちら。

 

こどものじかん』です。

アニメ化もしていますし、結構有名な作品なので知っている人も多いのではないでしょうか。

主人公は新任教師の23歳(男)ヒロインのりんちゃんは小学生3年生。

ちなみにりんちゃんは国民的芸人の粗品の付き合いたいキャラにランクインしています。


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内容は早熟なりんちゃんが主人公を(時には性的に)からかうという、小学校を舞台としたラブコメなのですが、児童虐待の問題だとか、小学校ならではの家庭環境の問題、教育の在り方、こどもの性欲など、難しい問題に取り組んだ意欲作でもあります。

ただのお色気作品だと思っているひとは、Amazonかなにかでアニメだけでも見てみましょう。結構シリアスな話で驚かされるでしょう。

 

 

ちなみに脚本はOVAも含め全話岡田摩利が担当していて、実質的にこれが彼女の出世作でもあります。

 

魅力としましてはやはりファッションについて。作中でも言及がありますが、こどものファッションは親が子供にどうあって欲しいかということが如実に表れます。

そして各キャラクターの服装にはそれぞれの家庭環境が反映されているのです。

また原作ではかなり踏み込んだ性的な描写をすることによって、こどもが大人になっていく様を大胆に描ききっています。

個人的におもしろいと思ったのは、無垢で気の弱かったみみちゃんというキャラクターが高学年になるにつれていち早く精神的に成熟し、結構辛辣なことを言ったりするようになるところ。

逆に成人でも大人になりきれないキャラクターも沢山登場し、それぞれが幼少期のトラウマや自身をこども時代に縛り付ける鎖を断ち切り、真の意味で大人になっていくという様はきっと感動するはずです。

テーマであるこどもとおとなとはなにが違うかということには、原作のほうで一応結論がでています。わたしは一応納得しています。

 

 

このような作品について賛否両論あることはわたしも理解しています。

しかし現代は情報化社会。

未成年であっても平気でポルノに触れることができてしまう時代です。

情報が簡単に手に入るということは、早熟なこどもが現れてしまう可能性も高くなるわけで。

もちろんそうした社会問題を真面目に取り扱うならば、文学などのハイカルチャーにおいて扱うということが倫理的には正しいわけです。

しかしハイカルチャーは今や象牙の塔の中以外では何の意味も成しません。

たしかにこうした作品に一種の不真面目な要素があることはたしかです。

最初から真面目腐ったテーマではもともと問題意識のあるひとしか手を出さない以上、不真面目の中に真面目なテーマを隠すことに、こうした作品の意味があるのではないかとも思います。

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(本ブログのスタンスは当記事にて)

 

というわけで今回は非JKヒロインの登場する漫画でした。

いろいろごたくを並べましたが、ぶっちゃけてしまうと、ただ衣装が変わる作品が好きなだけです。

そういった意味で本当は『苺ましまろ』を押したかったんですけど、あれ原作だとのぶえちゃんがJKなんで排除しました。

 

 

衣装が変わるアニメだと、『デビルマンレディー』も結構好きです。

これも同居百合なのですが、やっぱりヒロインがJKなので排除。

JK好きすぎるよオタクたち・・・

 

 

これはJKじゃないけど、制服だし。

 

やっぱり個人的にはOLヒロインとか増えて欲しいなってのが本音です。

今回は漫画中心でしたけど、アニメだとさらに制服JK率高いわけです。

だから『SPY』フォロワーがたくさん出てきて、一時期の『君の名は。』コピー祭りみたいな感じになってほしいなって思ってます。

 

それではJKブームの黄昏を祈って

 

またね~

 

『【ロボットになるな!】麦わらのRYANAボンがアンチ学生生活な青春漫画・アニメを紹介』

ハイサイ毎度!

Z世代の天才ブロガー、麦わらのRYANAボンです!

 

今回のテーマは青春モノ!

 

というわけで青春モノを紹介するのですが、皆さんアニメとか漫画とか見てると青春モノは学生生活が多すぎだとは思いませんか?

 

そこで描かれる青春と言うものは、大体学校行事やら部活やらバンドやらの活動を通して、学生特有のコミュニティでの人間関係を築き、学生たちの社会で認められることによってクライマックスを迎えるというパターンが「王道」なわけです。


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ufotableといえばやっぱり『まなび』。内容は失われた学生生活を取り戻す話)

 

しかしですよ。

高校の時の友人なんて卒業してしまえば、ほとんどが赤の他人。

特別親しい数人を除けばインスタで近況を見るだけだとか、宗教勧誘があるだけだとかそんな縁なわけです。

学生社会に認められた関係は脆いもの。

別の社会にそれぞれが適応してしまえば、そんな絆は簡単にほどけてしまうものです。

 

そこで今回はアンチ学生社会・学生生活な青春モノをピックアップして紹介していきたいと思います。

オルタナティブな青春が欲しいみんな。

ぜひこれらの作品たちを読んだり見たりして癒されましょう。

 

学校から出よう!幾原邦彦作品

少女革命ウテナ』『ユリ熊嵐

 

私のアンチ学生生活青春モノって発想の原点がここに在ります。

内容はどちらも学校という閉じた棺の中のくだらないレジームからの解放というもの。

 

少女革命ウテナ』の舞台はいかにも平成初期の少女漫画のアレゴリーといった鳳学園。

王子様に憧れた少女ウテナがその学園にて、姫宮アンシーという少女をかけて決闘に挑むというお話です。

この作品で語られる姫とはなにか、王子様とは、永遠とはというテーマは、そのまま少女漫画的な恋愛モノの寓話となっており、非常に興味深い作品です。

 

少女漫画には基本的に憧れのヒーローが登場します。

ただヒーローに見初められるだけが青春じゃないわけです。

それは学生社会でもっとも信仰されている価値観でしかないわけです。

かといって今はやりの方法論みたいに女の子がヒーローになれるって話でもないところが『ウテナ』の面白いところ。

ヒーロー・ヒロインなどという二項対立を解体した末のクライマックスは感動すること間違いなし。ぜひ見てみよう。


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(タイトルの通り、青春の終わり。ここでの青春は学生社会の青春だ。)

 

 

ユリ熊嵐』の舞台は『ウテナ』とは違って女子校。

つまり憧れのヒーローなんてものはいない世界なわけで、ここで問題になってくるのは「空気」というもの。

シナリオは正直ここで説明するのが難しいくらいわけわからんのですが、ようは学校社会において自身の「スキ」を探すというもの。ちなみに百合要素てんこ盛りです。

(キマシタワー)

空気に立ち向かって「スキ」を通したい方はぜひ見ましょう。

(この作品、多分幾原邦彦作品の中では一番難解ですが個人的には結構好きです。)


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(空気といえばこれ)

 

自分の居場所を求めた先『バイ・スプリング』

タイトルからして買春の話かなと思うかもしれません。

それは半分くらいは正解です。

ただこの作品の根幹にあるのは、自身を過剰に管理してくる母親を持った思春期の少年と、裕福ながら義理の父親とそりが合わないヒロインが高架下という場所に居場所を求めるというもの。

(エッチな展開を期待はあんまり期待できません。)

このような学校でもなく、家庭でもない居場所を求めている人ってのは結構いると思います。

別に毒親でなくたって中高生にもなれば親といることは気まずくなるものですし、多数の人間は学生社会に居場所を求めるのでしょうけれど、そこからあぶれてしまったひとはそこ以外しか選択肢がないわけですから。

(13歳にもなって学校以外の場所まで親の言いなりなのは逃げ場がなくて本当に気の毒に思えます。)

居場所を求めてる学生諸君。この作品を読んでぜひ癒されてください。

 

緩やかなアンチ学生生活 入間人間作品

電波女と青春男』『安達としまむら

 

入間人間のこの二作品はアンチ学生生活って雰囲気が漂っていていいんですよ。

『電波女』に関してはヒロインは高校中退していますし。

ただここで注目したいのは『安達としまむら』のほうです。

 

よっ友はいるけど本当の友人はいないしまむら、ぼっちの安達。

そんな学生生活に馴染めず半不登校の二人がエスケープ中に体育館で出会い、少しずつ仲良くなっていくというもの。いわゆる百合と呼ばれるジャンルです。

途中で不登校ではなくなって、一応授業を受け始めるわけですが、この作品が特殊なのは徹底的に学校行事が描かれないことです。

学園モノで人間関係を築く話は、キャラクターたちがイベントに巻き込まれるという形をとることが多いです。

そしてイベント、つまり学校行事等にむけて切磋琢磨し努力して学生社会に認められながら、仲間との関係も深くなるというものが主流ですが、『あだしま』はまったく違います。

あだしまでは安達がしまむらと仲良くするために、クリスマスデートに誘ったりだとか、バレンタインデーにチョコレートをあげるために奮闘したりするのですが、そこに学生社会との繋がりはありません。

二人の個人的な関係があるだけです。

 

 

修学旅行に行った時も、普通は班でなにをしただとかレクリエーションがどうしたなど、通常の作品では学生生活の流れが人間関係が大きく影響するものですが、『あだしま』では旅館の部屋内の二人がクローズアップされ、学生社会との断絶が描かれます。

 

そして何より特殊なのが、この作品ぼっちである安達が社会と打ち解ける可能性を完全に否定しているところでしょう。

実際彼女は何度かしまむら以外の人に接触はするのですが、よっ友よりも深い関係になろうとは思いません。無理してしまむら以外と遊びに行ったとしても、2人きりのほうが断然楽しいという感想を持ちます。彼女たちにとって社会とは打算的に生きる世界であり、そこになんのロマンもないのです。

そのため学生社会における仲間信仰は『あだしま』という作品にとっては息苦しいものとして描かれます。そして学生生活におけるイベントもそうした仲間信仰ありきのものであり、彼女たちには不要なのです。

 

 

 

アンチ学生生活としての青春漫画・アニメ。

青春の形は人それぞれなものです。

しかし恋愛のロールモデルがドラマや映画に影響されるように、アニメの青春描写も目指すべき良き青春として受容されることもあるでしょう。

 

 

学生生活・仲間信仰というものから良き青春はそのようなものだと勘違いしてしまう人もいるのかもしれないです。

もちろんそれは一つの正解ですが、それ以外に正解がないなんてことはありません。

今回はオルタナティブな視点を持つ上で少しは参考になればいいなと思いいくつかの作品を紹介しました。

もう高校・中学なんて卒業した私から言わせると、高校・中学というのは島社会みたいなものです。それはそれで楽しいところもあるし、私だって別に学生社会が嫌いなわけではないんですけど、なんだったんだあれということも結構あります。

私は中学生の時、これをやらなかったら退学という宿題をやらないで行った時ガチギレされました。当時私はロボットになりたくなかったのかもしれません。

でも退学はなかったので「話違うや~ん」ってなりました。

それ以降は宿題出さない主義から最低限出す主義に代わりました。宿題まる写しのせいで都大会出場停止になったことももありましたが、まあそういうのもいい思い出です。

 

高校生活で後悔してることはもっとさぼっとけばよかったなあということですかね。指定校推薦でも狙わない限り皆勤なんてなんも意味ないから、もし高校生がいたら卒業日数を計算して適度にサボることをおすすめします。

さぼって旅行とか行ってもいいと思いますよ。

学生社会が合わないなら、雑に打算的にそこでは過ごせ!これは『あだしま』で学べます。

こんな感じで、私はこどもも大人も自由に生きていけばいいと思っています。

みんな・・・

人生は冒険や!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【5ヵ月目】迷走した9月『うる星やつら』ブログになりかけた10月

(石の上にも3年と申しますけれども、3年と言えば36カ月、つまり5カ月の7倍も石の上で修行し続けなくてはならないわけです。

そう考えると大した年月というわけでもないのですが、それでもこれまでの記事数合計37。平均文字数たぶん4000字弱ということを見てみると、もう文庫本一冊分以上は書き上げているということ。

そう考えるとそこそこ頑張ってるのかもしれない・・・いやそうでもないかも?

世界征服にはまだまだ努力が足りません。

 

 

こんばんはZ世代の代表2号です。メタ妹です。タイトルの『』や☆がなければわたしです。

 

お知らせいたします。わたしが半年未満ブログを書き綴ってきて判明したことをお伝えさせていただきます。

割と電波な設定でブログを始めても読者の9割は気が付かないので問題ありません。

みなさんも羞恥心を捨てて、架空の兄やら妹になりきって文章を書いてみましょう。そうするとあら不思議、文章がすらすら書けるようになるでしょう。

半年未満ぶりに判明する本ブログのコンセプト、それは不誠実な書き手。

世界を毒電波で多くのひとを目覚めさせることが目的であるとプロフィールで語りましたが、わたしの小さな反逆は半年未満で効果が出てきました。

 

なんと世界を牛耳るGoogle検索で「Z世代の代表」と検索すると、わたしのブログが表示されるようになったのです。

また「うる星やつら OP」と検索して、一時期最も上位に表示されるという出来事もありました。

つまりこれはわたしのブログが「Z世代の代表」という単語と関連する内容であるということへの、権威のお墨付きです。『うる星やつら』が好きであり、知識が豊富でOPを解説できるのがZ世代の代表なのです。集合知がはじき出した結果であり、統計的に導き出され、大きな世界村につながれた現代人の小さな脳みそでは否定することの許されない真理なのです。

ただわたしの目的はいまだに果たされておりません。わたしの真の目的はZ世代と検索した時にこのブログに迷い込んでしまうような状況を作り出すことです。

deeplで the generation Zを翻訳した時に必然的に、RYANAや一号と翻訳されてしまうような状況をわたしは目指しているのです。

おそらく3年くらいたてばZ世代の賞味期限は切れ、α世代をもてはやす時代が始まるでしょう。そうなればわたしの勝利は目前です。そしていつか、Z世代が世界中のみんなに忘れ去られたときのこと。googleが潰れた後、アーカイブスを覗き込んだ未来人は思うのです。「Z世代の代表はこういうやつだったのか」と。

 

とまあこんな野望はどうでもいいことですね。予言者と詐欺師だけが未来の話を占有できるという法律を知らないわけではありません。ということでわたしは過去のお話をします。

 

 

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ずいぶん、昔の記事なイメージがある。『ジュラシックワールド』へのスタンダードな感想記事。割と賛否両論がある作品だったので、わたしはすかさず賛の側に立ちました。賛否両論の場合わたしは賛側に立ちます。賛賛の場合でも賛。否否でも賛。

私は日の本出身なので賛(sun)の下に立ちたいのです。それがどんなに散々なものであってもフィクションなら楽しむべきというグループに参加しています。

 

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よかったです。本当によかったリヒター展。

わけわからんかったけど、なんかよかった。記事内でも語っていますけれど、『ビルケナウ』は素晴らしかった。展示方法も様々っぽいので、違う場所でも鑑賞してみたいなって作品です。

 

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正直なところ普通の作品紹介に割と飽きてきていたんですよ。でもこの記事を書いて紹介するにしても、いろいろやりようがあるなと気が付きました。

これはわたしが書いた記事ですが、それぞれの作品紹介は何人かの方に手伝っていただきました。みんな平成10年以降生まれです❤がっつりZ世代です❤

 

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渾身の記事。

うる星やつら』入門(学部レベル)に必要なエッセンスはすべて入っています。

 

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地味にアクセスが伸びまくった記事。というかわたしのブログは半分以上これなんじゃないかな。それまではサイエントロジーの記事で半分くらいだったけれど、完全に逆転。

 

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注目記事の書き手やジャンルがいい感じにばらけているのはいい傾向。いろんな作品紹介をするのがZ世代の代表です。

 

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音楽、というかロック界隈だと「はっぴいえんど史観」だとかパンクにおける「セックス・ピストルズ」史観だとかがあるらしい。

ようはその後のそれに連なる作品の系譜のすべてをそのグループに帰するみたいな考え方で、権威に弱いサブカルが陥りがちな歴史観なんだとか。

漫画なら「大友史観」アニメなら「エヴァ史観」みたいなものがわたしはあると思うので、そのカウンターとしての「うる星史観」です。

おそらく「富野史観」「鳥山史観」「セーラームーン史観」「吾妻ひでお史観」「蛭田昌人史観」「あずまきよひこ史観」なんかもできるんじゃないかな。

○○史観なんてものではなく、文化は煩雑に組み合わさってるってことです。

わたしが地味に推したいのは「山田風太郎史観」でしょうかね。

 

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読書週間らしいです。どんな本でも読んでみるのはいいことです。

たしかにエッチな本とか自己啓発本だとかは読んでいたら恥ずかしいものですけれど、そんなのは気にする必要ないんです。好きな本を読みましょう。

 

 

というわけで飛躍の9・10月でした。来月はなにをかこうかな。今は『モンティ・パイソン』にはまっているので、もしかするとそんな記事を書くかもしれないです。

そういえば話題の『悪魔・電気ノコギリ男』と『殺し屋の夫、スパイの妻。超能力者の娘だけが知っている。』は読んだので、流行に便乗するのもありかもしれないですね。

どっちも私好みの名作でした。とくにヨルちゃんがお気に入りです。

さすが話題作の、しかも天下のジャンプラのヒロイン。黒髪でかわいい。需要をよくわかっています。

 

 

それでは11月にお会いしましょう。

 

バイバ~イ~

 

『読書週間! 読んでないと恥ずかしい読んでいない本』

10月末から11月の初めにかけては、全国的に読書週間。

普段本を読まない人はこの機会にどうぞ1冊、月に10冊以上は読むよという読書家のみなさんは、今までなかなか読めなかった大作に取り組むのもいいのではないでしょうか。

 

ちなみに私は読書家というわけではありません。歴史的名著を読破してやろうと思い立ち、とりあえずAmazonでポチるくらいの向上心はあるのですが、ポストから取り出して包装をビリビリと破り開けてしまえば、もう読もうという気持ちは秋の空。本棚のどこにレイアウトしようかという本棚デザイナーの私が、読書家の私をどっかに追いやってしまって以後その本が触られることはなかったりします。

 

 

というわけで今回は、そんな本棚デザイナーな私が読んでない名著を紹介したいと思います。

とはいっても紹介するのは本当に有名な作品ばかり。きっと読書家のみなさんは「えっ、これすら読んだことないのにスノッブを語ってたの?」と驚愕すること間違いなし。あんまり本を読まないよという人はこれを機に一冊くらいは手に取ってみましょう。

 

 

失われた時を求めて』 プルースト

いきなりクライマックス。

 

20世紀の世界文学の中でも最高傑作との呼び声も高い本作。

似非教養人のエアプ本ランキングでは常に上位を占めるでしょう。

同じように20世紀文学の最高峰ともいわれるカフカとはアクティブ数という点ではずいぶんと差をつけられているけれど、その原因は単純です。

どう考えても長すぎるということです。

岩波文庫のほうだと全14巻。きっとコンプリート率10%以下で、もうついていけないと引退してしまった人も沢山いるのでしょう。

しかしこの本、エアプであっても先人たちによる批評がたくさんあるので、結構語れてしまったりします。とりあえず夢想体験のようなシーンが映画やらアニメやらにあるならば、とりあえずプルースト的とレッテルを貼り、「プチット・マドレーヌ」だとか、「意識の流れ」だとかそんな言葉を巧みにあやつり、読んだことを名言せずに「プルースト読んだ感」を醸し出しましょう。

相手がエアプならきっとばれないと思います。プルースト人狼とかすっごく楽しそうです。読まずに「全英プルースト要約選手権」に出場するというのも挑戦的で面白いと思いますよ。

 

哲学探究』 ウィトゲンシュタイン

 

私は大陸系の哲学はにわか程度には知ってはいるんですけれど、英米系の哲学は本当によくわからないです。

ウィトゲンシュタインも世紀転換期オーストリア思想の一つ、つまりはフロイトだとかカール・クラウスだとかと同じグループって捉えれば地理的には確かに大陸系なのですけれど、やっぱり私的には英米哲学のジャンルに入る。

だからか「語りえぬものには沈黙するのみである」なんて言葉は有名だけれど、にわかですらない私にとってはどうも腑に落ちないのです。

私は唯物論者ですが、言語をメディアとして捉えているので、根本的に考え方が違うように感じます。(個人の感想です❤)

ただ彼の思想の理解しがたさとは裏腹にただ機械的に彼の本に目を通すというのはそこまで難しいわけでもないですよね。なんたって短いですから。

そういったわけで『論理哲学論考』には一応目を通したことがあるので、こちらを選択しました。

 

 

実際『論哲』は目を通したことのある人も多いでしょう。

「語りえぬもの」に関しては『探究』のほうでは沈黙していないとのうわさも聞くので、その辺しっかり取り組んだなら面白いかもしれないです。

 

資本論』 マルクス・エンゲルス

(うわでたよ。)

読んだ人はおそらく上記の二つよりはるかに多いでしょうが、エアプ率は負けず劣らずという本作。それだけ語られる作品というわけです。

名著であり、現代思想への影響は最も大きいと言っても過言ではない大作にも関わらず、センシティブな本ランキングでは世界で5本の指くらいには入りそうな尖った本です。別に共産党だけの占有物ではないんだけどね。

この作品のエアプ率の高さは、やはり危険な本だとみなされているところが大きいのでしょう。

まあ確かに数多くの人は本棚を見て、マルクスが並んでいたらそりゃあ引いちゃいますよね。実態はどうであれ、人は偏見に生きる生き物なので致し方ありません。

私が読んででいない理由?それは「プルースト的」な理由です。

共産党宣言』は読みました。あれは短くていいですね。

 

 

 

利己的な遺伝子』 ドーキンス

いきなり人文学から生物学へのジャンプ。

といってもこの本は別に専門書でもないですし、割と社会学的に受容されている一面もあるので、自然科学の本というわけでもないというのが、エアプからの印象です。

というのも「ミーム」という概念、おそらく定義を大きく超えてしまっていますが(読んでいないから確認していないよ)、この本が出典だとのこと。

Wikipediaに書いてあったからきっと90%ぐらいの確率で正確なはずです。(要出典)

この作品はエアプ率というより、ミームという言葉を出典を知らずに使っている率が凄まじい数いるでしょう。半年くらい前の私がソースです。

 

『聖書』

はい。実は完全に読んだことないわけではありません。ただ通読したかと問われれば、間違いなく答えはNO。

特に新約のほうはかなり厳しいですよ。「エンドレスエイト」じゃないですけれど、おんなじエピソードを何度も読まされるわけですから。

きっと世界的にも教会で聞いたことはある、エピソードが引用されているのを見たという形で聖書に慣れ親しんでいるひとは沢山いても、最初から最後まで通読しましたという人の割合はそこまで高くないのではないのでしょうか。

 

とはいえ作品を受容する上で間違いなく聖書の知識は必要なわけで、そんな時のために聖書が読めるサイトのリンクを貼っておきます。

www.bible.or.jp

(前に挙げた本みりゃ自明のことだとは思うけど、私はクリスチャンではないです。布教ではないことをここで断っておきます。)

 

 

いかがでしたか?皆様の読んだことのない本はありましたか?

今回紹介するのは世間的には読んでいないと恥ずかしい名著ばかり。だけれど、結構骨の折れる作品も多いので、読んだ振りをしているけれど、実は読んだことはないという見栄っ張りな方もきっといらっしゃるはずです。

 

一冊も知らなかった?

でも大丈夫です。本を読むということはメリットばかりではないのですから。

読んだことないから読んだに変わることはあれど、読んだ状態から読んだことがないになることはできないというところから、本を読んで取り返しのつかない事態になることが起こりえることは火を見るよりも明らかでしょう。

本を読むということは危険です。読んだら最後、奇妙な考え方に取り憑かれてどこか遠くの世界から帰ってこれなくなる可能性の存在は論理的に反証不可能です。

また本を読むという行為は最も反社会的な行為とも言えます。本を読むことは洞窟の中で修行することに似ています。詰め込み過ぎた知識とロジックがつかえて、穴から出られなくなったり、自分が洞窟の中にいることを認識できなくなり、見えないはずの獣に恐怖して、そのまま食われてしまったり、最後には自身が獣になってしまったりすることもあるでしょう。

 

とはいえ本を読んで得られるものは、他の体験には埋めがたい特別な経験になりうることがあるのも確かです。

なんだかんだ本を読むことはいいことです。正直読む本なんかどうでもいいです。読んでないと恥ずかしいなんて考えて、名著をつかまえてわざわざ読む必要なんかないんです。

 

 

私はむしろ周りに読んでいるとばれたら恥ずかしい本をそれでも読み続けるということこそ、本を読む醍醐味だと思います。

最後に私はこんなのを読んでいるとばれたら恥ずかしいけれど、それでも好きな作品を一つだけ教えます。

いいわけはありません。理論もありません。実は高尚な作品でドゥールズがどうとか、ガタリがこうとかいうという講釈もありません。下に書いてある一言以外に好きな理由はありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かわいいは正義!!!!!

 

 

『うる星やつらと平成 うる星の遺伝子は受け継がれた。』

 

うる星やつら』ほどモダンな作品はあるのだろうか。

 

 

もちろん影響力だとか、オリジナリティなんてものは数値化することができないので、結局は主観に頼らざるを得ない。

世間では現代のオタク文化エヴァ以後だなんて批評がされるけれど、私にはどうしてもそうは思えない。

 

 

 

(とはいえガイナックス的な同人と公式の境目があいまいな商売方法は大きなインパクトがあったと思える。『エヴァンゲリオン』は本編の内容よりも消費のされ方が画期的だったのだとわたしは考えている。しかし内容面でならばエヴァよりインパクトを与えた作品は他にも沢山あるのではないだろうか。)

 

どう考えても内容的にはうる星以前以後と言った方が適切だろうと考えるのだけれど、この考え方はおかしいのだろうか。

殊更に90年代後半から10年代前半までの主要なオタク作品の多くは、うる星やつらの遺伝子を受け継いでいるように思える。

もちろんこれらの作品がうる星に影響を受けているなんて起源論を主張したり、パクり認定してそれらの作品を貶したりはしない。

 

今回はうる星やつらが開拓したうる星ぽさ、つまりうる星の遺伝子を継ぐ作品をここで何作品か上げてみることによって、その遺伝子がいかに平成を象徴していたのかということを概観することを目的としたい。

 

うる星の遺伝子

 

それではうる星の遺伝子とは具体的にはどのようなものなのだろうか。

 

まずうる星の遺伝子その1として挙げられるのは、美少女キャラクター+日常系+ラブコメというものだろう。

ここでの日常系と言うのは、『ドラえもん』のような状態を想定している。

つまり、キャラクターたちになにか大きな目的があるわけではなく、日々過ごす中で起こる事件をドタバタコメディとして描写するというものだ。これに関してはそこまでうる星が革新的だったというわけではない。しかし当時はガンダムブームであり、青年が見るアニメと言うものは戦記物が主流だったし、『ドラえもん』もテレビ朝日で放送していない。少女向けではこういった作品はあったが、うる星は青年が見る日常系のパイオニアということができるだろう。

 

そして美少女。うる星やつらには様々な美少女が登場する。そしてそれぞれ宇宙人だったり雪女だったり、巫女だったり、保険医だったりする。幽霊という場合もあるし妖精だったりもする。こうしたバラエティー豊かな美少女が登場することはうる星の革新性の一つであり、最も影響を与えた部分である。

そしてそれらの要素をラブコメという軸でまとめ上げているのがうる星である。基本的にはラムちゃんとあたるの一連の流れ、つまりあたるが浮気をしてラムちゃんが電撃を放つというクリシェが延々と繰り返される。(もちろん本当はそんなわけではなく、あたるは他のヒロインにも殴られたりけられたりする。)

 

 

ここまでが原作うる星の遺伝子の基本的な要素である。この遺伝子だけでも受け継いだ作品はあまりに多いため、ここに記しきることはできない。

 

一応例を挙げてみるとこんなところだろうか。

 

 

 

 

 

(別にパクりと言っているわけではない。)

 

これだけでも相当なもんなのだが、うる星の遺伝子はこれだけではない。

アニメ版『うる星やつら』、特に映画『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』は原作と同じくらいの規模の影響をオタク文化界にもたらしたのだ。

 

 

それはどのようなものだったのか。細かいところを言い出したらキリがないので、大枠だけ記述しよう。

 

うる星の遺伝子その2は、作中世界をキャラクターの夢と表現したり、作品内でループさせたりすることで日常系のメタ構造を浮かび上がらせるというもの。

物語は虚構である。それは当然のことなのだが、遺伝子その1のような物語はあまりに都合が良すぎる。

そんな性格の悪い観点からうる星やつらという作品を解体、物語の虚構性を夢と看破し繰り返される日常をループという手法で表現した。メタフィクションといえば単純に物語の登場人物が漫画の枠外から突っ込みを入れたり、ゲームの登場人物が第4の壁を越えて話しかけきたりと言った、表面的なものもある。

しかし『うる星2』は作品構造を批判的に作中に取り込み、作中そのものに批評性を持たせることに成功した。

 

メタ構造、夢、ループという遺伝子もご存じの通り数多くの作品の中にみられる要素である。

例を挙げるとこんな感じだ。

 

 

(メタ構造という意味では最も進化させた作品)

(商店でメモを貼るシーンなど『うる星2』のパロディもある。しかしこの作品はバブル崩壊後の作品。文化祭前日なんて気分はもはやなく、合宿にて人間関係がバラバラになったところから始まるのだ。)

(言い逃れできないレベル。映画製作、無人島での殺人事件、しかもトリックまで同じ、そしてループ。『うる星3』では町の特異点としてラムちゃんを定義して、ラムちゃんが去ると超常的な現象はめっきり起こらなくなり、現実世界のようになるが、ハルヒも『うる星3』に近い世界観だ。)

(アニメ最終話のエンディングがね)

(喫茶店のシーンやバスのシーンは間違いなくパロディ。内容は前述のクロスチャンネルのほうが近い)

 

こうして挙げた作品を見ていくと、平成を代表する作品が目白押しだ。昭和まではオタク文化の主流はヤマト・ガンダムといった戦記物だった。

 

(『Zガンダム』ほんま面白い)

 

しかし徐々にうる星遺伝子を受け継いだ作品、つまり日常とメタフィクションを取り入れた作品が増えていき、00年代には主流となる。

 

令和に入ってからはオタク文化というものが王道少年バトル漫画との融合を果たしたり、メタ構造を必要としないなろう系のブームなどでうる星遺伝子を受け継いだ作品は目立たなくなったものの、いまだに子孫とも呼べる作品は数多く存在している。

 

令和最新アニメ『うる星やつら』が現在放送中であるし、令和にもうる星遺伝子は受け継がれていくのだろう。