世界で最もセンセーショナルな少女、ロリータ。
ロリータという言葉は日本においては無垢な少女やロココ風のフリフリの可愛い衣装を指すことも多いが、本来のロリータにそのような意味はない。
早熟で大人の男を魅惑するファム・ファタルというイメージが世界では一般的なのだ。
(ここで『ロリータ』の紹介をしています。未読の人はぜひ)
(これがファム・ファタル二回目)
『ロリータ』が出版された時、それは英語で書かれた小説だったのにも関わらず、最も熱狂した国はフランスであった。
そして特に声高に肯定したのは最もリベラルで先進的だったフランスの論壇。
あのジャン・ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーボワール達だ。
特にボーボワールがロリータ的な魅力を持ったブリジット・バルドーを絶賛したことから、フランスのロリータブームは性解放のシンボルとして使われることになったのだ。
(ただ、ボーボワールはロリータを引用してはいるけれど、年齢は指定していない。そもそもこの時代のフランスでも男を破滅させる小悪魔的なヒロインが流行っていた。)
(『素直な悪女』ブリジット・バルドーをマリリン・モンローに並ぶセックスシンボルに押し上げた作品)
(『気狂いピエロ』みんな大好きゴダールの作品。これも年下美女に中年が翻弄されるお話。エリート中年のエゴイズムがキモい映画。内容云々よりもレイアウトが好き。)
そしてなんといってもフランスのロリータと言ったら外せないのはこの男。
セルジュ・ゲンスブールだ。
日本だとフレンチロリータと呼ばれるフランスのアイドル歌手の楽曲を数多く提供した男だ。
(「さよならを教えて」原曲はこんな悲しそうな雰囲気の曲だが、戸川純が歌うとなぜかストーカーソングに。もちろんあのゲームのタイトルもここからとられています。ちなみにこのヴァージョンもカバーで全く違う雰囲気の英語の歌が本当の原曲)
アイドル史上、絶対に外せない人物であるが、人格的にやばい人である。
(ホイットニー・ヒューストンに”I want to fuck you”と言ったとか。)
彼が提供した楽曲は名曲がそろっていて、日本人にも数多くの人にカバーされている。そしてその中で最も有名なのはコレだ。
この「夢見るシャンソン人形」はユーロビジョンでグランプリを取り、ロックンロールが大流行している中でも高い評価を得た曲だ。
日本でもかなりポピュラーな楽曲だろう。
ただ日本語ではソフトな翻訳がされているのをご存じだろうか。
そもそもタイトルの“Poupée de cire, poupée de son”は蠟人形、音の出る人形という意味である。
そして原語の歌詞を見ると、大した人生経験もないアイドルが恋について歌わされることを皮肉る内容となっているのだ。
そんなすこし込み入った歌詞を作るゲンスブールだが、彼がフランス・ギャルに提供したこの曲。これが非常にまずい。
このPVを見ればある程度察することができるだろう。
明らかにあれを意識した棒状の物体がゆらゆらと揺れ、ロリポップを煽情的に咥える少女たち。
これは本当にひどい。
この曲のタイトルは“Les Sucettes”。ロリポップを表す言葉だがもちろん隠語である。
この曲について、フランス・ギャルは当時あんまりよくわからずに歌わされていたとのことで、意味を理解してからは歌うのを嫌がったという。
ちなみに邦題は「アニーとボンボン」である。ボンボンなのは日本人の頭である。
そしてそれから数十年たって、00年代に入ってもそうしたフレンチロリータの伝統は続いていた。
その中でも最も成功して今でも活躍中なのか彼女。
アリゼだ。
デビュー曲“Moi Lolita”はその名の通りロリータをモチーフにした楽曲。
ロリータの冒頭の部分をずっとリフレインさせたような歌詞だが、当時まだ16歳のアリゼの声は魅惑的な雰囲気を醸し出し、フランス的なロリータをよく表している楽曲だ。
題名“J'en ai marre!”はうんざり、疲れたという意味。
しかし邦題では「恋するアリゼ」などというふざけたタイトルになっている。
この曲は日本でもリリースされた。そしてブルボンのCMで使用され、アリゼが笑っていいともにも出演。
そんな日本でも発売されたこの曲。この曲も歌詞もなかなかエロテックである。
泡風呂の中で跳ねる金魚についての歌のようだが、きっと察しのいい皆さんならお分かりだろう。
(そんな曲がお菓子のCMって・・・)
そんなロリータの典型ともいえるアイドルの彼女だが、シャイで問題を起こすこともないらしい。
今では肩にセーラームーンの刺青を入れて、妖艶なお姉さんキャラで売り出している。(フランス人のセンスは謎である。)
そしてこのフランスのロリータ文化というものは映画のコンテクストにも数多く現れる。
数多くの名作があるが、その中でも最も有名で、今でも人気の作品と言えばコレ。
『レオン』である。
監督のリュック・ベッソンはフランス出身。元々は『グラン・ブルー』のようなフランス風の映画を撮っていたのだ。
(フリーダイビングという世界でも有数の頭のおかしいスポーツを題材にした映画。実在の人物であるジャック・マイヨールとエンゾ・モリナーリを元に作ってはいるけど、かなり脚色されている。まだ存命だった2人をかってに死んだことにしたり、海と一体化したり好き放題やっている作品。ただ名作でフォローワーも多い。きたがわ翔の『B.Bフィッシュ』や題名だけだけど『ぐらんぶる』など。)
しかし女殺し屋を題材にした『ニキータ』からアクション映画に方向転換。その後は『トランスポーター』や『フィフス・エレメント』などのアクション映画を撮る監督になった。
(そして主演女優に手を出すというゴダールやトリュフォーからの伝統を守っている監督でもある。)
そして『レオン』はそんなリュック・ベッソンのアクション映画初期の作品。
内容は説明不要だと思うので省くが、あるシーンが物議をかもし、マチルダ役のナタリー・ポートマンからも「不適切」であると言われているのだ。
(レオンについての記事① ナタリー・ポートマンの発言)
問題になったのはマチルダがマドンナやマリリン・モンローなどのセックスシンボルに扮してレオンを誘惑するシーンだ。過酷な状況で育ち、早熟であると言っても彼女はまだ12歳(当時のナタリー)。これは明らかにロリータ的であると言ってもいいだろう。
(そのほかにも明らかにロリータなシーンがある。12歳くらいの少女と一緒のベッドで寝るのも変だし、レオンにキスを迫るシーンにしろ、「女の子の初体験は大切なの」というセリフにしてもエロチックに描かれる。)
そしてこういうシーンを踏まえると、レオンのほうもマチルダにたいしてただならぬ視線でみているように見えてくる。
例えばマチルダが店の前で少年とタバコを吸いながら会話していたのを遮って、「変な奴としゃべるな」と言ったシーン。
これは親心的な心配から言ったのか、それとも独占欲からなのか?
答えは、ぜひもう一度見てご自身で判断していただこう。
(『レオン』にはオリジナル版と完全版がある。完全版のほうは不適切とされカットされたマチルダの描写が収録されている。見比べてみても面白いはずだ。)
(レオンについての記事②)
こうしたロリータ的なキャラクターはフランスを中心に数多く生まれ、そして最近でも早熟な少女というアイコンへの信仰は根強いように思える。
例えばこの少女の名前はティラーヌ・ブロンド―。
当時9歳にしてVOGUEの表紙を飾ったモデルである。
(9歳には見えない・・・)
ただ性的すぎると物議を醸し、フランスで論争になったとか。
ティラーヌ本人はいまだにモデルを続けているし、自身をモデルへの道にみちびいた両親に対して今のところは不満を訴えてはいない。
しかし、子どもに対して、ロリータ的な魅力、具体的には性的なファム・ファタル幻想を伴ったキャラクターを演じさせるということは悲劇をもたらすことも多い。
(もちろん先述のフランス・ギャルにしろ、ナタリー・ポートマンにしろ、悲劇である)
そしてそうしたロリータを演じさせた母への告発映画が『ヴィオレッタ』だ。
ヴィオレッタ(これは監督自身である)をヌードやエロチィックな恰好をさせることで、人気を得た母。そして母の要求は次第にエスカレートしていく。母を否定できないヴィオレッタ。
そして学校でいじめを受けるようになって・・・という内容である。
この映画は児童虐待、そしてロリータを求めるフランス社会の歪みをよく表した映画だ。
ポルノと芸術の境目はどこにあるのか。ロリータへの憧れがどのような事態を招いたのか。子供にとって親はどのような存在か。そうしたことについて考えさせるきっかけを与えてくれるだろう。
(ただこの映画自体が10歳の女の子にヴィオレッタを演じさせている時点で・・・)
ここまでフランスのロリータについてみてきたがいかがだっただろか。ロリータというファム・ファタルへの理解が少しは深まったのではないだろうか。
(サルトルやフーコー、ドゥールズ、ボーボワール、バルトなどが未成年との性的関係を擁護したという事実。)
さて少しだけまだ続けたいと思う。
日本についてだ。
もちろん日本でのロリータという言葉は少し意味が異なる。
どちらかと言うと少女文化をルーツにしていて、吾妻ひでおを中心としたロリコン漫画家によって普及したイメージである。
『不思議の国のアリス』のような華憐で純粋なイメージ。ファム・ファタルや小悪魔と言うよりは、天使であり、エロチィックというよりはかわいいである。
(『私に天使が舞い降りた』直球なタイトルだ)
(『苺ましまろ』「かわいいは正義」というキャッチコピーを産み出した名作)
ただそんな価値観が支配的な日本においてもフレンチロリータ的な作品は存在する。代表的なのはコレ
『こどものじかん』だろう。
(霜降りの粗品とはじめしゃちょーが認めている時点で国民的な作品と言ってもいいだろう。)
この作品、ただのポルノとみなされがちであるが名作である。
まずアニメの脚本はあの岡田麿里。少女期の性欲を書かせたらアニメ界ではピカ一の脚本家であるが、原点はこの作品にあると私は見ている。
(『ユリイカ』で岡田麿里特集がありちらっと確認したが、『こどものじかん』への言及はなかった。謎ですね。)
(ちなみに私は卒業年から見ると、りんと同じ年に産まれている。同じ世代からの視点としては、当時の小学校の雰囲気をよく表していて、ノスタルジックな気持ちに浸ることができた。)
あらすじはこのようなものだ。
主人公の青木は新任教師。小学三年生を受け持つことになるが、そこには前任をいじめてやめさせた九重りんという少女が在籍していた。
りんに好かれた青木は(時には性的に)からかわれながらも、受け持っている小学生たちとともに成長していく。
この作品はコミックハイ!という男性向け少女漫画というわけのわからないコンセプトの雑誌で連載されたものである。
(コミックハイ!は女子高生がヒロインというコンセプトの雑誌である。しかし一番人気は『こどものじかん』だった。)
そのためか『こどものじかん』も数々のお色気シーンが盛り込まれているとはいえ、少女漫画的なエッセンス満載の作品なのである。
コマ割りや絵柄も少女漫画的であるが、何といってもりんの心理描写は他のロリコン作品とはくらべものにならないほど豊か。そして少女の生々しい性欲やグロテスクな一面も詳細に描かれるのだ。
(この巻である)
小学生の少女が自身に性的な魅力があることを自覚するということ。
こうした事例は確かにあるのだろうが、一般的にすることはできない。
そのため誰かがそうしたアイコンを演じるということは悲劇を招くことにもなりかねない。
しかしそうしたものが存在する以上それを表現する必要があるのかもしれない。
(もちろんそれを担っているのが小説である。しかし本を読む人口は減る一方だ。)
しかしフランスで現れたロリータのほとんどは幻想だった。
そもそも原作『ロリータ』の作中ですら実在するか怪しいのがロリータである
数多くの人がロリータを誤解してきた。
そして戦前のファム・ファタル幻想の名残ともいえるロリータたちはいまだに存在している。
我々はいかにそれに付き合っていくのか。考えてみるのも面白いだろう。
(ファム・ファタルシリーズはこれで終わりです。もしまだ未読なら、他の記事もぜひ読んでみてください。)
では。
おつロリータですわ~