Z世代の代表 作品紹介

一号とRYANAがZ世代ならではの視点でさまざまな作品を紹介します。

☆☆☆気軽に読もう日本語文学!!数分で読み切れる短編小説編 梶井基次郎 宮沢賢治など (3)☆☆☆

 

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(こんな記事を書いてから半月が経過してしまったRYANA。「日本語文学編もやります」などと言いながら、日本語文学の知識はない。勉強しようにも金槌で釘を打つトカトントンという音が聞こえてきて、やる気が出ない。でも西洋文学だけを紹介するのはポリシーに反するというめんどうくさい性格のRYANA。そんなこんなで少し詳しい人にお話しを聞きに行こうということを思い立つ。)

(ということで今回はダイアログ形式で、簡単に読める日本の短編や詩を紹介しちゃいます。)

 

(やる気が・・・)

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『簡単に読める日本ガイドダイアログ』

 

一号「日本語文学のおすすめ?」

RY「うん」

一号源氏物語

(日本語文学の最高傑作ってやっぱ『源氏物語』じゃないですかね。というか世界的に見ても最高峰と言っても差し支えないレベルでしょう。ただ長いし難解・・・)

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RY「なるべく短いやつで。」

一号「じゃあ『土佐日記』」

RY「土佐日記ってなんだっけ?なんか聞いたことある気がする。」

一号「「男もすなる日記というものを女もしてみむとてするなり」紀貫之が女のふりをして書いた紀行文。知らないの?」

RY「なんだそりゃ」

 

 

(全55日に渡る、土佐から京までの紀行を一日一日と語る。女性だと言いながらおやじ臭さがぬけていないのが面白いポイントだ。)

 

一号「当時紀行日記は男性が漢文でかくものだったし、どちらかというと記録として残す役割が強かったみたい。それを女性が使うかな文字で書いた作品。紀行文って言うけど、フィクションもかなり混ざってるから、小説としてよむこともできるよ。」

RY「『土佐日記』ねえ。平安時代にもなりすましおじさんなんかいたんだな。現代でもバ美肉とか言ってるやつらいるし、昔からそんな願望が強いのかも。私にはいまいちわからんのだけど。私も美少女に扮して日記でも書こうかな。」

一号「なにそのきもい感想。貫之の場合は確かにネタとしての一面もあるけれど、当時主流だったきっちりとした記録じゃなくて、心に寄り添った所に意味があるの。」

RY「じゃあ私も美少女になりたい男性の心に寄り添えばいいってことか。」

一号「そういう意味じゃないんだけど・・・」

 

平安時代の日記って貴族なのに俗っぽいよね。)

 

RY「『土佐日記』みたいな古典もいいんだけど、やっぱ古文読むのはきついし、新しいのはないの?」

一号「新しいって近代文学ってこと?」

RY「そうそうほら夏目漱石とか芥川とか太宰とかの時代」

一号「明治時代から昭和初期くらいってことね。」

 

(これも短い。漱石って基本実験的だよね。)

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RY「なるべく短いやつでお願い。あとタダで読めるとなおいいな。」

一号「どんなのが好きかにもよるなあ。なんかよんだことある作品ないの?」

RY「「羅生門」くらいかな。『山月記』も授業で読んだかも。あんま覚えていないけど。」

一号「じゃあ芥川とか読んでみたら。『歯車』とか。」

 

(思いつめすぎだよ芥川)

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RY「確かに芥川はいいな。ゴーゴリ好きだし。ただメジャーすぎるかも」

一号「はあ?」

RY「メジャーすぎたら紹介しても意味ないし・・・とりあえず短くて読んでいたら自慢できるようなやつ教えてくれ。」

一号「程度の低いやつ。でももしかしたらあんたがいつも読んでるような海外文学より短い作品が多いかも。結構有名なやつでも50P以内で読めるのも多いよ、日本語文学は。これなんかどう?『桜の樹の下には』」

 

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RY「梶井基次郎か。有名なのコレ?」

一号「知らないの?めっちゃ有名だよ。聞いたことない?「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」って。」

RY「あ、それ聞いたことあるぞ、千夜ちゃんが言ってた。」

一号「千夜ちゃん?」

RY「知らないの?『ごちうさ』の。めっちゃ有名だよ。」

一号「ふーん(無関心)そうなんだ。」

 

(ラッキーアイテムは罪と罰らしい。)

 

RY「確かになんか力強い文だね。」

一号「桜の美しさと屍の腐った臭いのコントラストがいいんだよね。・・・」

RY「お前やっぱり悪趣味だな。」

一号「なにか言った?ああそうだ。梶井基次郎なら『檸檬』とかも有名だよ。」

RY「『檸檬』も短い。たった10Pならすぐ読めるな。」

 

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一号「これ読んだからって、書店にレモンおいてくるとかやめてよね。あんたすぐ影響されるんだから。」

RY「お前は私をなんだと思ってるんだか。」

 

檸檬

檸檬

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御茶ノ水の聖橋に行くとこの曲を思い出す。なげちゃだめだよ)

 

一号「腐った屍で思い出したけど、腐った臭いが好きならやっぱ外せないのは乱歩。」

RY「いや別に好きだなんて一言も言ってないんだが・・・」

一号「乱歩だと『人間椅子』もいいけど、やっぱ『芋虫』だよね。」

RY「『人間椅子』、『芋虫』・・・ああelfの伊頭家三部作の『鬼作』のEDか。」

 


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一号「何言ってんの?どうせまたキモいこと言ってんだろうけど。」

RY「まったく心外な。伊頭家三部作は名作だし...確かにキモいな。で『芋虫』ってどんな話なの?」

一号「戦争で重体になって、芋虫みたいになって帰ってきた夫とその妻の話。」

RY「え?」

一号「しかもそんな状態の夫を妻はいじめるの」

RY「あっはい。」

一号「両手足も、聴覚も味覚も失ってるし、声も出ないんだけど、目だけは生きていて・・・」

RY「やっぱお前も大概だな」

 

 

RY「なんかもっとすっきりした作品はないのか?胃もたれのしそうな作品ばっかじゃん。」

一号「うーん。RYANAなんかに勧めるってなると、そんなやつばっかり選んじゃうんだよね。そうだぴったりのがあったよ。田山花袋の『少女病』」

 

(『末期』のほうはいつ出るんだろうね)

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RY「田山花袋?あんま聞いたことない作家かも。」

一号「え~?そうなのかなあ。でもきっと気に入るよ。」

RY「22pと短いし、読みやすそうだけど。どんな内容なんだ?」

一号「電車で見かけた女学生についてのしがない中年の想いをつらつらと書き綴った話。」

RY「・・・」

一号「たまに今だときもいおっさんだって言う人いるけど、当時でもキモかったんじゃないかな。」

RY「すっきりとした作品なのかこれ?」

一号「わたしはすっきりしたよ。最後のシーン読んで。」

RY「あんま期待しないで読んでみるよ。」

一号「なんでそんなこと言うかな。せっかくぴったりの作品教えてあげたのに。」

RY「お前・・・」

 

一号「そうだ。田山花袋といえば、国木田独歩とか・・『武蔵野』は短いよ。あと柳田国男だよやっぱ。」

 

(わたしは東京人だけど、こんな武蔵野はしらない・・・渋谷に林なんかないよ今。あるのは明治神宮と代々木公園だけ。でもツルゲーネフのから着想を得て武蔵野の自然を描写するのって面白いよね。)

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RY「柳田は知ってるよ。たしか民俗学だかの学者でしょ。」

 

(妹は妹ではない)

 

一号「そうそう。彼の出世作の『遠野物語』なんかは文学と言ってもいいんじゃない?」

RY「『遠野物語』か。座敷わらしとか河童とかのあれね。」

一号「あれも70Pくらいで短いよ。文体は独特だけどそれもいい感じ。120の民話がそれぞれ短くまとまってるから、読みたいやつだけ読むのもあり。そしたら数秒で読めるよ。」

RY「民話か。グリム童話みたいなもんなのかな。」

一号「似てるけど、こっちのほうが驚きと恐怖に満ちてるかも」

RY「驚き?恐怖?」

一号「なんていうか、不気味で、でもだからこそ心惹かれるというか。もしかすると江戸時代の東北の貧しい農村部の事情が関わっているのかも。例えば河童の話なんてね。遠野の河童ってなぜか顔が赤いの。これは昔口減らしのために、間引いた子供を川に流して、それを河童だって言っていたという説があるんだって。」

RY「じゃあ今私たちが読んで不気味なのはそんな死の雰囲気を感じるからなのかもな。」

一号「そうそう。『遠野物語』って死についてのエピソードがたくさんあって、どれも独特だけど、なにか心の奥底に響くものがあるから今でも驚きや恐怖を持って読むことができるのかもね。だからわたしは大好き。」

RY「・・・」

 

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(文語なのでちょっと読みづらいので一応口語訳も。でも口語だと間延びしちゃうんですよね。)

 

RY「あの・・やっぱもっとさわやかなのはないんですか・・・さっきから重々しいというかグロテスクというか」

一号「さわやか?『少女病』以外で?うーん・・・わたしそういうの好きじゃないからあんま知らない」

RY「やっぱ性格がねじ曲がっているんだね」

一号「失礼だなあ。」

RY「やっぱりさわやかに終われるやつが読みたいな。きっと今の時代そう言うのが求められているわけだし。」

一号「じゃあ宮沢賢治とか。」

RY「賢治?『よだかの星』ってなんか重かったような。」

 

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一号「確かに悲しさもあるけど童話だし・・・わたしは『洞熊学校を卒業した三人』とかが好きなんだけど・・・」

RY「その表情。なんか嫌な予感がするからそれ以外にしてくれないか?」

 

 

(小学生のころ、図書室にあって、あんまりにも衝撃的な内容が話題になりました。)

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一号「え?なんでわかったの!?じゃあいいよしょうがないな。『やまなし』なんかは短いしいいんじゃない?」

RY「『やまなし』?賢治って山梨県出身だっけ?」

一号「岩手県。常識でしょ。「クラムボンはわらったよ。」くらい知ってるでしょ。」

RY「クラムボン?それバンドじゃないの?」

一号「賢治だよ!」

RY「クラムボンってやまなしに出てくるのか。」

一号「そうだよ!」

RY「えっと、キャラクター名?」

一号「違うけど。」

RY「じゃあなんなのクラムボンって?」

一号「・・・」

 

カニが主人公。クラムボンってなんなんだろう。)

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一号「童話だから簡単だろうだなんて思ってるかもしれないけど、結構難しいの賢治は!よくわからない作家ランキングで日本文学界でもかなり上位に来るくらい難解だよ。造語が多くて、何言ってんだこいつってなることもしばしば。でもそんな文章のリズムと音感を楽しむのが賢治の楽しみ方なのかも。」

RY「じゃあ音読したりした方がいいのかな。ちょっとめんどくさいけど。」

一号「何言ってんの。賢治は詩人でもあるんだから、音としての日本語も大事にしてるに決まってるじゃん。『雨ニモマケズ』とか黙読じゃ魅力半減だよ。」

RY「まあ確かにソネットもエレギーも音読するもんだもんな。それにしても『雨ニモマケズ』ってすごい詩だな。そういう人を目指すだけですごいわ。まあ私は「サウイフモノニ ワタシハナレヌ」って方が共感できるけど。」

一号「やっぱあんたって・・・でもそういう詩が読みたいなら日本語詩も結構楽しめるかもね。じゃあ今度は詩もいくつか見てみようか。」

 

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(『銀河鉄道の夜』はバージョンが沢山あり、いろいろ違ったりするから読み比べると面白い。青空文庫のやつだと最後ブルカニロ博士が世界観の説明をしだすけど、いま出版されているものにはそんな人物は登場しない。)

 

(というわけで短編編は終わりです。次回は日本語詩編!また会いましょう。それではでは~)

 

『私には戦争がわからない。』

8月15日。

今日は言わずと知れた終戦記念日である。

終戦から今年で77年。つまり当時を覚えている人はもう80代をゆうに超え、男性の平均寿命とほぼ同じということになる。

とはいえ「戦争」という特権的な意味を持つ単語は私たちの中で、いまだに使い続けられているし、毎年この時期にTVをつければ、広島や長崎に落とされた原爆の特集やドラマ、NHKのドラマなんかが毎年流され、当時の愚かしさを時には分析的に、時にはトレンドのアイドル俳優を使ったドラマで教えてくれる。

 

 

「戦争」についてはZ世代であっても必ず知っている。それはなんとなく見ているネットニュースでもいいし、学生時代強制的に見させられた平和学習の教材でもいい。

そして多くの日本人が「戦争は悲惨である」だとか、「戦争はしてはいけない」ということもきちんと知っているだろう。

仮に渋谷で「戦争賛成ですか、反対ですか」という質問を若者に聞いてみれば、ほとんどの人が反対と答えるはずだ。

 


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確かに私たちは戦争を知っている。そして疑いようのない模範解答も知っている。そして何を言うべきかということも知っている。

 

だが戦争を知っていても、解っている人はきっといない。

そしてそれは日本だけでなく、世界的に共通する問題なのだ。

 

(なかなか面白い映画。戦争映画と言うよりは、現在のアレゴリーである。)

 

わたしは数年前、ドイツ国内にあるKZ(強制収容所)に訪れたことがある。

教科書通り、門には(ARBEIT MACHT FREI)と書いてあった。

雪のしとしとと降る中、厚いコートとブーツを履いて私は当時のまま残された施設を神妙な面持ちで巡っていったのだ。

 

(名作なので皆さんご存じだろう。)

 

その収容所はガス室こそなかったが、やはり多くのユダヤ人や捕虜となったソ連兵などが奴隷のように働かされ、そして殺されていった場所だ。そのうえナチス政権が崩壊した後、そこはソビエト連邦に接収されラーゲリとなった。そして今度はドイツ兵をはじめとした捕虜が強制労働を強いられ、死んでいった場所だ。

「此処では何千ものソビエト兵が殺された!」と書いてある横に、「ラーゲリ記念館」が立っていることは、戦争の愚かしさを象徴的に物語る。

 

(映画早く見たい)

 

私はあくまで真剣に見学していたし、帰るころには殺された人たちに同情し、「私はKZに赴き、戦争の愚かしさを完全に理解したのだ。」という風に思い込むほど、深く考えさせられていたのだ。

 

しかし、帰る間際のこと。

恐らく中学生くらいだろうか?社会科見学だか、修学旅行だか見当もつかないけれど、とにかく学生の集団がガイドに引き連れられて、ぞろぞろと施設の中に入ってきたのだ。

 

思いあがっていた私は、せっかくだからガイドの話を盗み聞きしてやろうと彼らの横に立って、やっぱり神妙な面持ちで立っていた。

 

すると突然、その横の集団から女性の怒鳴り声が聞こえたのだ。

私は遠慮がちにだが、横を見てみると集団の一番後ろについてきていた女性が二人の少年に対して𠮟りつけている。

どうやらふざけていたらしい。そら怒られて当然だろうと思いながら、横眼で彼らを見る。少年たちは不貞腐れた表情で一応反省の素振りを見せ、またガイドが始まった。

 

そして私はその不貞腐れた少年たちの表情を見たときに、居ても立っても居られなくなり、私は施設から逃げだしたのだ。

私は大学に入ってからはヨーロッパの歴史や文化を少しかじり、模範解答として「どのように振る舞うべきか」ということを学んできた。

しかしあの少年の不貞腐れた表情をみて、自身の化けの皮が剝がれ、私が本質的に戦争をわかっていないということがはっきりとわかってしまったのだ。

 

(この映画を白黒にしたのは、まずかったのではないかと思う。)

 

時はさらに遡ってそこそこ前の話。

中学生だった私は、学校の修学旅行で広島に連れてこられた。

当時の私は不勉強であり、そして率直であった。

旅行に行く前には、学校の側に指定された、慰霊碑巡りというものにたいして不満を漏らし、「こんなものじゃなくて、厳島神社に行きたい」と友達と愚痴を言い合っていた。

そして現地に着けば碑巡りなんてものは適当に済ませ、もみじ饅頭を買って、冷房の効いた部屋で雑談しながら時間を潰したのである。

そしてこの態度の悪さというものは、私に限った話ではなかった。

 

(日常的なシーンが長く、戦時中にも我々と地続きな生活があったんだと共感しやすい。)

原爆資料館での出来事である。

考えてみれば決められた時間しかないのに、なぜあんなにも長々と雑談をしていられたのか。碑巡りをおろそかにしただけでは計算があわない。

それは資料館もまともに見ていないからである。

資料館に入ると班員だった女の子がこんなことを言ったのだ。

「私グロいのとか見たくないから、グロいところはスルーで」

この女の子の発言に対して、誰も意義を申し立てることはなく、生々しい描写のある場所はすべて素通り(その女の子は手で目を覆っていた)することになったのだ。

そしてあからさまに素通りするのを見ても、教師はなんにも言ってこなかった。

そういえば事前学習として、『はだしのゲン』の映画を見る際も、グロテスクなところは無理に見なくてもいいと言っていた気がする。

嫌がる生徒に無理やりグロテスクなものを見せると問題になるかもしれないとでも思ったのだろか。

 

 

そういうわけで、中学時代の私の広島体験は、今は何を話したかも覚えていないような雑談で幕を閉じたのである。

 

そしてそれから3年後、今度は沖縄に修学旅行に行くことになった。そしてもちろん平和祈念公園だとか、ひめゆりの塔だとかに見学に行くことになったのだが、私たちはそのうえ現地の語り部の方からお話を聞く機会を頂いた。

そこは集団自決があったと言われる、洞穴の前で、語り部は臨場感たっぷりに当時の悲惨な様子を伝える。

しかしそれを座って聞いていた時、後ろに座っていた男の子が、私の方をツンツンとつついた。

私は振り返ってみると、後ろの男の子二人はニヤニヤとしながら、「あのおばさん、あき竹城に似てね?」と言ってきた。もう一人の男の子はもう決壊寸前というほど笑いをこらえている様子だ。

私も語り部の顔を見てみる。確かに似ている。TVのそっくりさんに出てくるレベルで似ている。

当時にはもう、私はある程度分別をつけていたので、絶対に笑ってはいけない場面であるということは重々承知していたし、こんなところで笑うなんて人間として最低であるということだって理解していた。

しかし、それを意識すればするほど、込みあげてきてしまうものが笑いである。私は必死に笑いを抑えながら、耳を傾け続けた。

語り部の話はさらにヒートアップしてくる。旧日本軍への怒り、そして米兵への怒りを感情をこめて話し続けている。そして最後には持っていた紙を地面にたたき付け、演説は終わった。内容は沖縄戦の悲惨さを伝える素晴らしいものだった。

 

 

しかし帰りのバスで、さっきの友達が、あき竹城のまねと言いながら、修学旅行のしおりを叩きつけた。

みんな笑った。そして私も笑った。

 

高校の修学旅行では平和学習の課題として、ショートレポートを提出しなければならない。

文章を書くのが嫌いだった私は、誰かの物を参考にしようと、同じ班だった先ほどの男の子のレポートを盗み見た。

たしかこのようなことが書いてあった。

「沖縄では戦争で、日本の中で唯一陸上戦があり十万人以上の人が亡くなりました。そしてそれは軍人だけでなく、民間人も数多くの人が死んだのです。わたしは語り部の話を聞いて、当時の状況にとても胸を痛め、戦争というものの残忍さ、卑劣さ、そして悲惨さを実感しました。決してこのようなことは二度と起こしてはいけません。そしてそのためにも、戦争がこれから起こらないために、戦争の現実を伝え続けていかなくてはならないと思います。」

 

私もおんなじようなことを書いて、提出したはずだ。だが私たちだけでなく、みな同じようなことを書いて提出したのだろう。

 

 

そして次の日にはそんなことを忘れ、全員海だのマングローブだのレジャーに心躍らせたのだ。

 

未成年時代の出来事であるが、はっきり言って本質的には私は変わっていない。

私は実は戦争について何もわかっていなかったのに、いかにもわかっているふりをしていただけだ。

大学で小手先の知恵を付け、神妙な面持ちを面持ちで偉そうなことを言うことは覚えたけれど、なんにもわかっちゃいない。

あったかい恰好で強制収容所を見学したからなんだというのだろう。意味がないとは言わない。関心を持ち、犠牲者たちを認識し続けることは間違いなく意味がある。

だが、戦争を理解するにはその場所に行くだけでは不十分すぎる。

ならばどのようにすれば理解することができるのだろうか。実際に体験した人の伝記だとか体験を追体験することで、それをなすことは可能だろうか?

 

私はそれも不可能だと考えている。

 

こうした戦争をわからないという戦中世代との断絶は、普遍的なものだと私は思う。

俗っぽいたとえだが、富野由悠季監督と庵野英明監督の作品を比較すれば分かりやすいかもしれない。

 

ガンダム』『イデオン』『ダンバイン』においては戦争という状況において、肉親との断絶、時には親殺しというテーマが描かれている。

 

(『イデオン』は展開もイデ発動のシーンも好きだが、その2つを合わせると少し評価が落ちる。)

ガンダム』ではアムロは母に拒絶される。『イデオン』ではカララは姉や父と対立するが、それは戦争という状況に巻き込まれた故である。『ダンバイン』に関してはもっと徹底している。主人公であるショウも母親に拒絶されるし、キーンは戦争故に親を殺すし、リムルもそれぞれ両親と対立する。

 

に対して『エヴァンゲリオン』ではどうだろうか。『エヴァ』においても親子の断絶は描かれているが、これは明らかに戦争という状況故のものではない。戦争抜きに親子間のコミュニケーションが足りていないだけである。

 

そしてこの違いはやはり戦争体験の差なのではないかと、私は考えている。

 

戦争をわからない私たちにとっては戦争故のもの、つまり集団が個人を超えて重いものになり、死すらいとわなくなるという状況を理解できない。

それゆえに、戦争体験者が戦争ゆえの心理描写を描いたとしても、私たちは個人的な心理描写に読み替えてしまうのである。

 

(日本人の戦争体験の喪失については、この映画を見ずには語れない。)

 

つまりこの仮説が正しいならば、私たちは広島や沖縄、アウシュビッツに行ったとしても、その場で起こったことがわかることは絶対にない。

分かったと思ったとしてもそれは、今まで人生で感じてきた個人的な悲しみを、彼らに当てはめているだけなのだ。

それゆえに世間を知らない率直な子供時代は、そうした場所で不真面目になってしまうのだ。

そして大人になって世間の目を意識して、意識の高い集団にいると、振る舞いが洗練され、自分自身すら騙すようになる。そして、戦争教育に同調して、修学旅行の時に書いたレポート課題のようなことを、心から思っていると錯覚するようになるのだ。

 

だが、私たちはどうすればよいのだろうか。戦争をわかっている人たちはどうあがいても減っていってしまうし、いつかゼロになる。

そんな中で空虚なスローガンを掲げ続けることで、本当に平和を保つことができるだろうか。

 

(殺人事件まで起こしているテロリストに密着したドキュメンタリー。旧日本軍の極悪非道な罪をかれが暴いていくという内容だが、破天荒な彼が説得力を持つのは彼自身の戦争体験故である。収録された時代では、戦地に行って指揮した人たちが生きていたが、現在はもう死に絶えている。こうしたドキュメンタリーは二度と表れないし、Z世代の私にとってはこの映画は異世界のものに思える。そして奥崎健三氏の末路を考えると、当時この映画を激賞した戦後世代の人たちも、何一つ奥崎をわかっていなかったということがわかるだろう。)

 

 

さんざん修学旅行やスローガンを否定するようなことを言ってきたが、結局私たちにできることはそれくらいしかないのかもしれない。

渋谷の同世代の若者たちが、「戦争反対」のスローガンを空虚に不真面目にでも、持ち続けていることが、意味のあることなのかもしれない。

 

無意味にきれいごとを唱えること。それは意味を持たせようと行動に走るよりも、危険ではないのかもしれない。

 

8月15日、終戦記念日

私はこの日に、「私には戦争がわからない、でも平和は大事なのは確かだ。」と唱え続けよう。

分からない世代にとっても、この時期だけでも、空虚に思い起こすことにはきっと意味があると信じたい。

 

 

RYANA

☆☆☆発熱文庫☆☆☆

 

数年前の話。

 

珍しくツタヤでDVDを借りた。大学から帰って来たのでテレビで見ることにする。

借りたタイトルはコレ。

 

惑星ソラリス Blu-ray

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惑星ソラリス

 

1970年代のソ連映画で、あのアンドレイ・タルコフスキー

2部構成の映画で3時間近くある映画。

名作とはいうけれど、結構見るのに覚悟がいる。だけど返却期日もある。早く見なきゃならないし、今日見ようということで見始めた。

うわさ通りのつわもの映画。

スローテンポな音楽と長いカット。意味がつかめない水の映像。

そして極めつけは首都高を延々と走り続けるシーンだ。タルコフスキーは未来感を演出したかったのかもしれないけれど、わたしのような東京人にとってはいつもの光景でしかない。あんまりに冗長なので頭がクラクラしてくる。つらいので主人公が宇宙に飛び立つ前に映画を止めわたしは眠りについた。


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(公式だけど、日本語字幕はない)

 

次の日朝目覚めると頭がまだクラクラする。だけど今日は大学4限だけ。そしたら午前中に後半を見てしまおう。


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結論から言うと後半は結構面白い。

ソラリスという惑星の観測衛星に到着した主人公は、前任の調査隊に声をかけようとするのだけど、みんな部屋にこもりきっている。

そしてある学者の部屋には、こんなところにいないはずの子供の影が見えたりして謎が深まっていく。

そしてなんと主人公の死んだはずの妻が出現するのだ。

よく比較される『2001』年と比べると画面的にはチープなのかもしれない。だけどこの映画のもつ幻想的な雰囲気は唯一無二。

 


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そしてあのとき、わたしはその幻想的な雰囲気にどんどん飲み込まれていく気がしたのだ。

 

ずっと何か違和感がある。頭の痛みがズンズンと増してくる。足だとか背中だとかやけに火照っている。

 

そして宇宙船が無重力になるシーン。バッハの音楽が流れながら主人公と妻が浮遊するのだが、そのころにはわたしは自分の身体がどこにあるのかも忘れ、ソラリスの宇宙に投げ出されていたような気がする。

というのもその後のシナリオの筋道は明確に思い出せないけれど、神秘体験と言えるようなものに陥っていたからだ。

 

 

あの時のイメージは言葉にできない。

素晴らしい体験だったというわけではない。かといってつらい体験だったというわけでもない。

だけど、宇宙といってもいいし、イドといってもいいし、夢といってもいいけれど、そんな大きな流れの中にいるような感じ。

 

その日、大学に行ったわたしはあまりに頭痛がひどいので学内の診療所に行った。

もしかして微熱くらいはあるかなあと思ったからだ。

 

そしたらびっくり。

なんと39.4度もあったのだ。その数字をみたわたしは漫画のように、その場にへたり込んでしまったのを今でも覚えている。

 

その日はそのまま帰って、病院でインフルエンザの検査を受けたけど陰性。

そして次の日には熱はすっかり下がって、次の週には大学にもバイトにも行けるようになった。

 

それからしばらくたってから、もう一度『ソラリス』を見てみた。

だけれど、やっぱりあの時のような感覚を感じることができなかった。

 

でももう一度あの感覚を感じてみたいと思ったわたしは、「発熱文庫」というものを作ってみた。

学校では学級文庫というものがあったけれど、それは学校側の指定する読むべき本の集まり。

「発熱文庫」は熱が出たとき読むべき作品。

 

(ホラーって人気だよね。)

文庫と言っているけれど、本に限らず映画とかも入っている。

 

熱が出て最初にやるべきことは、病院にいくこと。最近なら然るべき場所に電話すること。

でももしあなたが健康で、どうしても眠れないということがあったら、熱が出たときように用意した「発熱文庫」をぜひ思い出してほしい。

 

「発熱文庫」一覧

 

(これもよくわからないよね)

 

(『惑星ソラリス』に似てる?)

 

(高校生の時に授業中、電子辞書でよんだ。変な歌が長すぎて大変だった。)

 

(酩酊状態だとなにを口走るのだろう。)

 

(原作『夢小説』もおすすめ)

 

『手軽に読める西洋古典文学!これで君も文学教養人だ!カフカ、チェーホフ、イプセンなど(2)』

 

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(↑西洋哲学編)

 

リベラルアーツ

① 職業に直接関係のない学問、芸術のこと。実用的な目的から離れた純粋な教養。

※詩辨(1891)〈内田魯庵〉「吾人能く之を解すると怠るとに由りて或は心芸(リベラル、アーツ)ともなり或は器械術(メカニカル、トレード)ともなる」

② 専門に分かれる前の一般教養。大学の教養課程

 

皆さんごきげんよう

読書していますか?

明日は立秋

つまりあしたから秋。読書の秋です。

 

「あかあかと日はつれなくも秋の風」 (芭蕉)

(現代でもこの時期に秋の風を感じられるのかな?)

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(言ってることが矛盾している・・・)

 

私は小説についてはどんなものでも読みます。それこそノクターンノベルズから、ライトノベル、SF、大衆文学、前衛文学、古典文学全部読みます。

ライトノベルであっても、芸術的な価値のある作品があると思っている人間ですが、社会に通じる「教養」ということであればどうしても古典作品になってしまいますよね。

 

 

ただ古典と言っても数が多すぎます。

西洋ならホメロスアイスキュロスソフォクレスなどのギリシア時代のもの、ウェルギリウスなどのローマ時代、イタリアはダンテ、スペインならセルバンテスから・・・イギリスならシェイクスピアにミルトンに・・・

 

(豆知識・ダンテの『神曲』って原題は「喜劇」なんですよ。だけど森鷗外が『神曲』って訳してそれが日本語に定着したんです。)

 

多すぎる!!

じゃあだれか偉い人が選んだリストから読んでみよう!

 

サマセット・モームの『世界の十大小説』

 

 

トム・ジョーンズ』『高慢と偏見』『赤と黒』『ゴリオ爺さん』『デイビット・コパフィールド』『ボヴァ―リー夫人』『白鯨』『嵐が丘』『カラマーゾフの兄弟』『戦争と平和

 

なるほどこれを読めばいいのか。

それじゃ『カラマーゾフの兄弟』から・・・文庫で3冊!!!しかも一冊500P。字が小さい!!!

 

 

戦争と平和

 

 

全6巻!!!!!

このほかも一冊じゃ終わらないものばっかり。

長い!それじゃあ別のラインナップを。

 

『二十世紀の十大小説』篠田一士

失われた時を求めて』『伝奇集』『城』『子夜』『U.S.A』『アブサロム、アブサロム!』『百年の孤独』『ユリシーズ』『特性のない男』『夜明け前』

ふんふんなるほど。

 

それじゃあ聞いたことある『ユリシーズ』・・・4巻・・・

 

 

『特性のない男』6巻・・・

 

(3巻までよんだ。つづきは読む気ないけど、わたしの中のベスト10に入る傑作)

失われた時を求めて』13冊・ギネス記録保持者

 

 

まあボルヘスの『伝奇集』は短いけど、他は常軌を逸した長さ。しかも20世紀文学はめちゃくちゃ読みづらいという。

 

(積んでんだよね。)

 

さて、圧倒的な分量の前に挫折しそうな皆さんに朗報です。文学は別に長いものばかりではないのです。短編でも優れた切れ味を持つ作品は沢山あります。

前置きが長くなりましたが、というわけで今回は手軽に読める文学作品を紹介していきたいと思います。

 

 

オイディプス王』 ソポォクレス

 

 

文学と言っても小説だけではありません。そもそも小説というものが成立したのはずいぶん最近のことで、西洋では戯曲と詩が中心だったのです。

そして戯曲の中でも最も古典として完成度の高い作品がこの『オイディプス王』でしょう。

ニーチェが激賞して、フロイトがエディプスコンプレックスの元ネタとした本作。

父殺し、近親相姦という文学の中でも重要なエッセンスが詰まっています。

 

 

ただギリシャ悲劇慣れしていない人だと、コロス(コーラス)などに戸惑うかもしれません。読んでみて困惑した方はこちらの本もおすすめです。

 

 

『砂男』 ホフマン

 

 

くるみ割り人形』で有名なホフマンですが、フロイトの論文で有名なように、彼は「不気味なもの」を書く作家です。

「砂男」とは夜眠らない子どもに親が聞かせるお話に登場する、夜やってきて目を潰す怪人。主人公のナタナエルは子供のころからそのお話を聞かされて、砂男が実在すると信じ込むようになります。

そして父親の弁護士であるコッペリウス、そして彼に似ているコッポラを砂男その物だと信じて疑わない主人公。恋人や友人に「なに言ってんだこいつ?」って思われるところから始まる本作は電波系だとか認識が狂ってしまう系統の作品で最も重要な古典です。

 

 

また狂った主人公が自動人形に恋をするなど、現在の文化への影響も計り知れない本作。

短いのでぜひ読んでみよう。

 

スペードの女王』 プーシキン

 

 

プーシキンはロシアの国民的作家。ロシア語の祖であり、ロシア国内ではドストエフスキートルストイよりもプーシキンのほうがポピュラーなのです。

『オネーギン』が主著というほど有名なのですが、あれは原語では独特な韻文であり翻訳ではその良さを十全に味わい尽くすことはできないと言われています。

ということで散文作品から『スペードの女王』をオススメしておきます。

内容は先ほどのホフマンと少し似ていて、不気味な雰囲気。

題名の通りトランプ賭けについてのお話。異常な精神と伝奇的な怪しさを味わいたいひとは必読の作品です。

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青空文庫でも読める。)

 

『外套』ゴーゴリ

 

短編小説なのですぐ読めます。

このゴーゴリを読んだ日本文学ファンの人は「なんか既視感がある」と思うかもしれないです。それもそのはず。芥川龍之介ゴーゴリをパク・・・リスペクトして多くの作品を書いているからです。

(芥川は今だったらぶち叩かれるレベルで引用していますね。「一本の玉葱」にしろ「鼻」にしろ現在のインターネット大衆は許さないでしょう。私はすべての作品は引用のモザイクである論者なのでパクりで怒ったりはしませんが。)

 

 

芥川龍之介のことはおいておくとして、『外套』について。

平たく言えばさえない男が、外套を変えることで気持ちの持ちようが変化するというお話です。貧しく悲惨な人生を送っている主人公なのですが、すこし突き放した地の文も相まって、本当に可愛そうになってしまいます。

外套を変えることで人生が変わったように浮かれるというのも面白いです。でも外套がなくなってしまったら...

大金を支払いブランド品を身に着けるひともいますが、やはりブランド品を身に着けると気の持ちようも変わるものなのでしょう。

ちなみに作者のゴーゴリウクライナ系。しかしペテルブルグを舞台にした作品も多く、ロシアとウクライナの間でゴーゴリはどちらのものかという争いが続いています。

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『紅い花』 ガルシン

 

(これじゃない)

 

(こっち)

 

なんだか狂気に照準が合いすぎている気がしますが、また精神病についての短編。

『紅い花』の舞台は精神病院。そして主人公は狂人であります。

主人公は罌粟の「紅い花」に世界の悪がすべて詰まっていると思い込み、正義感から花を摘み取ります。

「あの燃えるような紅い花に、世界のありとある悪が聚あつまっていたのだ。彼は罌粟けしからは阿片あへんの採れることを知っていた。恐らくはこの想念が枝葉をひろげ、異様な形をとって、凄すさまじい怪奇な幻影を彼に作り上げさせたのであろう。彼の眼にはその花は、ありとある悪の凝って成ったものと映じた。その花は、罪なくして流された人類の血を一滴もあまさず吸いとり(だからこそあんなに真紅なのである)、人類のあらゆる涙、あらゆる胆汁をも吸いとったのだ。それは神秘な怖るべき存在であり、神の反対者であり、さも内気そうな無邪気そうな風ふりを装う暗黒神アリマンであった。毟り取って、殺してしまわねばならないのだ。しかもそれだけではまだ足りない。それが息を引きとる際に、身内の凡すべての悪を世界へ吐きだすようなことがあってはならないのだ。だからこそ彼は、それを自分の懐ふところにじっと押し匿していたのである。」(ガルシン著 神西清訳 『紅い花』 青空文庫より)

どんどん病状が悪化していく主人公。それでもかれは「紅い花」にある悪を滅ぼさんとします。

あんまり有名な作家ではないですが、太宰治が熱中していたり知る人ぞ知る名作家であるガルシン。短いので読んでみましょう。

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『可愛い女』 チェーホフ

 

 

ロシア文学が続いてすみません。

でもやっぱりロシア文学好きなんですよ。そしてわたしが一番好きな作家がチェーホフ。戯曲が有名ですが、短編の名手でもあります。

そして『可愛い女』も名作短編の一つ。

本作に登場する「可愛い女」であるオーレンカ。彼女はクーキンという男と結婚していますが、夫であるクーキンと同じような話し方をするようになります。

「けどねえ、見物衆にそれが分かっているでしょうか?」と彼女は言うのだった。「あの連中の求めるのは小屋掛けの見世物なんですわ! 昨日わたくしどもで『裏返しのファウスト』を出しましたら、どのボックスもほとんどがらあきでしたが、それがもしわたしたちヴァーニチカと二人で何か俗悪なものを出したとしたら、さだめし小屋は大入り満員だったに相違ないんですわ。明日はヴァーニチカと二人で『地獄のオルフェウス』を出しますの。いらしてちょうだいね」

「というふうに、芝居や役者についてクーキンの吐いた意見を、彼女もそのまま受け売りするのだった。やはり良人と同様彼女も見物が芸術に対して冷淡だ、無学だといって軽蔑していたし、舞台稽古にくちばしを出す、役者のせりふまわしを直してやる、楽師れんの行状を取り締まるといった調子で、土地の新聞にうちの芝居の悪口が出たりしようものなら、彼女は涙をぽろぽろこぼして、その挙句あげくに新聞社へ掛け合いに行くのだった。」(チェーホフ著 神西清訳 『可愛い女』 青空文庫より)

しかしクーキンはなくなってしまいます。

しばらくの間絶望する彼女でしたが、今度は材木屋と再婚します。そして今度は材木屋と同じように話すようになるのです。

 

「「当節じゃ材木が年々二割がたも値あがりになっておりましてねえ」と彼女はお得意や知合いの誰彼に話すのだった。「何せあなた、以前わたくしどもでは土地の材木を商あきなっておりましたのですけれど、それが当節じゃヴァーシチカが毎とし材木の買い出しにモギリョフ県まで参らなければなりませんの。その運賃がまた大変でしてねえ!」そう言って彼女は、ぞっとするように両手で頬をおさえて見せるのだった。「その運賃がねえ!」

 彼女は自分がもうずっとずっと前から材木屋をしているような気がし、この世の中で一ばん大切で必要なものは材木のように思えて、桁材だの、丸太だの、板割だの、薄板だの、小割だの、木舞こまいだの、台木だの、背板だの……といった言葉の中に、何となく親身なしみじみした響きが聞きとれるのだった。」(同上)

このように男を愛するたび、すべてがその男に影響されるオーレンカですが、それを「可愛い女」としたのはどういうことなのでしょうか。

これをチェーホフの皮肉と取ることもできるでしょうし、医者であるチェーホフが診断した男たちの理想の女性の自然な姿という風にもとれるでしょう。

しかし「可愛い女」であるオーレンカのことをなんだか憎めないことは確かであり、短いですが、様々な観点から見ることができる名作だと思います。

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『人形の家』 イプセン

 

島村抱月訳)

しまむらのはちょっと読みにくいのでこれも)

 

こちらは戯曲です。女性解放物として、自然主義として有名な本作。

内容は良妻賢母として裕福な家庭に暮らしていた女性が、ある事件をきっかけに家を出ていくというもの。

外に出るという『人形の家』的なストーリーは数多くの作品に影響を与えていますね。

 

(『ウテナ』は間違いなくそう。)

 

私が好きなのはこのシーン。

「ノラ 私自身に對する義務ですよ。

ヘルマー 何よりか第一に、お前は妻であり母である。

ノラ そんなことはもう信じません。何よりも第一に私は人間です。丁度あなたと同じ人間です――少くともこれから、さうならうとしてゐるところです。無論、世間の人は大抵あなたに同意するでせう。書物の中にもさう書いてあるでせう。けれどもこれからもう、私は大抵の人のいふことや書物の中にあることで滿足してはゐられません。自分で何でも考へ究めて明らかにしておかなくちやなりません。」

「ノラ えゝ、わかつてゐません。これから一生懸命わからうと思ひます。社會と私と――どちらが正しいか決めなくてはなりませんから。」(イプセン著 島村抱月訳 「人形の家」青空文庫

 

(このしまむらじゃないよ)

私は社会学的な価値はおいておいて、よくわからないけれどとりあえずこの場から去りたい、これから一生懸命わかるんだという姿勢に心打たれました。

またノラという名前もいいですよね。

 

 

カフカ短編集』 カフカ

 

 

『変身』で有名なカフカですが、彼はショートショートも数多く書いています。そして本当に短いものだと2pくらいしかないものもあります。

これは読みやすい!!だって750分の1カラマーゾフですから。

カフカの短編の中でおすすめは「家長の心配」という作品。

「オドラデク」というよくわからない生き物?についてのお話。

姿は平たい星型の糸巻きで、糸が巻き付いている。・・・

この時点でよくわからないですが、オドラデク自身も名前しかわからないらしいです。

世界でも有数のよくわからない作品を書くカフカ

現在でも通説なるものは存在せず、研究者泣かせの作家ですが、最も数多くの人に愛され続けている作家でもあります。

私はカフカにはきっと、我々が見える世界よりもラジカルな世界そのものが見えていたのではないかななんて思っていたりします。

 

「それがこれからどうなることだろう、と私は自分にたずねてみるのだが、なんの回答も出てはこない。いったい、死ぬことがあるのだろうか。死ぬものはみな、あらかじめ一種の目的、一種の活動というものをもっていたからこそ、それで身をすりへらして死んでいくのだ。このことはオドラデクにはあてはまらない。それならいつか、たとえば私の子供たちや子孫たちの前に、より糸をうしろにひきずりながら階段からころげ落ちていくようなことになるのだろうか。それはだれにだって害は及ぼさないようだ。だが、私が死んでもそれが生き残るだろうと考えただけで、私の胸はほとんど痛むくらいだ。」(カフカ著 原田義人訳 『家長の心配』 青空文庫

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とりあえずこんな感じでどうでしょうか。短くて手軽に読める作品をいくつかピックアップしてみましたが、どれも人類史上の宝ともいえるほど洗練された作品です。

文学のいいところは、我々の想像力をかきたてるところ。そして思っても見なかった世界の視方を提供してくれます。

青空文庫でも結構な量の小説を読むことができるので、ぜひ読んでみましょう。

Kindleのアプリからもダウンロードできるので、結構快適に読めますよ。

 

それではこれで西洋文学編終わりです。

 

あれまだ続くの?と思ったそこのあなた。

 

いつ出すか未定ですが、詩や日本文学、東洋思想についてもいつか出したいと思います。

 

 

 

西洋文化ばかりじゃ偏っているとは思うのですが、私あんまり日本文学わからないので、勉強して出直してきます。

教養人には学ぶ姿勢が大切ですからね。

というわけでまたお会いしましょう。

 

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それでは~

『スノッブ入門!!「大人の教養」のための西洋哲学編 プラトン、デカルト、ニーチェなど(1)』

スノッブ・・・「紳士・教養人を気どる俗物。えせ紳士。スノブ」(『デジタル大辞泉』より)

 

 

みなさん本を読んでいますか?


読書家の皆さんはきっと月に10冊、ハードカバーのごっつい本を大量に乱読しているかもしれませんが、私は違います。

私は本を買っても積んでばかり。さらには集中力がないのでを読んでは投げ、読んでは投げという生活を続けているのです。

本のチョイスにも問題があります。

SDGs的意識高い系の私はエコロジーを第一に考えているので、100年後に読まれなくなりそうな本を倫理的に買うことができないのです。

 

 

そして身の丈の合わない古典名作を読もうと決心するのですが、今度は複雑難解すぎて一文も理解できない。

そして結局入門書を買いあさって理解した気分に浸り、もう一度古典を読み返すと、「あれなんか言ってること違わね?」ってなったりします。

特にひどかったのは『存在と時間』。翻訳されて日本語になっているはずなのに、文字情報が全く頭に入って来ません。

(「現存在」と「人」って何が違うんでしょうか?「共同存在」とは?「日常的様態」とは?「先駆的決意性」とは何でしょう。自分の死を想う?でも死は体験できないんじゃなかったけ?)

 

 

(ふぇぇ・・・ぜんぜんわかんないよぉ・・・)

というわけで、私のように教養人を気取りたいながらも、なかなか「大人の教養」を得るための古典を読み解くことができない人のために、西洋哲学の中でもとっつきやすいものをピックアップしていこうと思います。

 

 

ソクラテスの弁明』 プラトン

 

 

この本をオススメする理由はとても短いということです。

またダイアログ形式なので、小説のように読むことができます。

皆さんご存じのプラトンの作品で、「無知の知」という誤解されがちな言葉の元ネタでその箇所がこちら。

「私はこの人間よりは知恵がある。それは、たぶん私たちのどちらも立派で善いことを 何一つ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、 私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、 なにかそのほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私 は、 知らないことを、 知らないと思っているという点で」(プラトン著 納富信留訳『ソクラテスの弁明 』(光文社古典新訳文庫) (p.22-23). 光文社)

(岩波文庫の訳は大正時代のものなので、やめておいた方がよさそう。)


www.youtube.com

なおかつ光文社新訳文庫版の翻訳を担当している納富先生の講義がYouTubeで見れるんですよ。

(「無知の知」という俗説はプラトンの言っていることとはかけ離れている。倫理の教科書に書いてあることをアップデートしましょう。)

 

(エロスについての本。つまりエロ本だ。)

 

この著作は西洋哲学の中でも最も重要な作品の一つです。哲学の祖とも称されるソクラテスの裁判についてプラトンは何を見たのか。

始めての哲学書にぴったりの本ですが、その奥深さは一生読み込んでも尽きることはないでしょう。

 

新約聖書』より「ローマの信徒への手紙」

 

 

わたしはキリスト教徒ではありません。

しかし聖書のエッセンスは西洋思想を読むうえで必要不可欠なものです。

だけど聖書を読むにはあまりに長いし、おんなじエピソードを何度も読まされるのは結構大変な作業。

というわけで、新約聖書の「ローマ信徒への手紙」だけをよんでみましょう。

これは使徒パウロがローマ在住のクリスチャンに送ったもので、パウロ流のキリスト教の救済や信心についての断片を感じ取ることができます。

さらに宗教改革を起こしたルターも激賞しており、プロテスタンティズムを理解する上でかなり役に立ちます。

インターネット上でも読めるのでぜひ読んでみましょう。

www.bible.or.jp

 

これをよんだら次におすすめなのはこれ。

キリスト者の自由・聖書への序言』 ルター

 

これも本文だけなら100pに満たないもの。

庶民向けに書かれたものなので、読みやすいはずです。

プロテスタンティズム入門にぜひ読んでみましょう。

「たましいも言の有するもの言から受け取る。そこでキリスト者は信仰だけで十分であり、義とされるのにいかなる行いも要しないということが明らかにされる。」(ルター著 石原謙訳(岩波文庫)『キリスト者の自由・聖書への序言』(p21)岩波書店

 

方法序説』 デカルト

 

 

この本もあまりに有名です。

「われ思うゆえにわれあり」という言葉は誰もが知っていることでしょう。

 

「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。」(デカルト方法序説』(岩波文庫)(p9)岩波書店

こんな文章から始まる『方法序説』はその名の通り方法について、つまり哲学・理性?の方法についての序説です。

しかもこの序説はとっても親切。序説が始まる前に序章がありこんなことを書いているのです。

「この序説(話)が長すぎて一気に読み通せないようなら、これを六部にわけることができる。」(デカルト方法序説』(岩波文庫)(p7)岩波書店

とはいえ岩波文庫版で100pほどなのですぐ読めると思います。

「われ思うゆえに」のところが読みたければ、第四部から読みましょう。

たった2pで「コギト」に辿りつけますよ。

 

 

『人間不平等起源論』 ルソー

 

 

中学や高校の教科書だと、ホッブスやロックとセットで覚えるルソー。

かれは実は作曲家で、「むすんでひらいて」はルソーの曲。


www.youtube.com

フランス革命にも大きな影響を与え、現代社会にとっても最も重要な思想家であるルソーですが、私は『人間不平等起源論』をオススメします。

これも本文は短く140pほど。

タイトルで「人間は起源から不平等なのだ」などと誤解する人もいるかもしれませんが、その逆でもともと「平等」だった人間からいかに「不平等」が生まれたのかということを探る本です。

彼は人間の自然状態、つまり文明以前というものを想定するのですが、生物学や文化人類学が発展した現在からみると彼の着想は奇妙に思えるかもしれません。

実際にそうであったというよりは、人間の本来の姿を想定するためにルソーが想定した姿が所有権なき、野生人だったのです。

彼の所有権なき野生人たちの発想が現在の人権や平等思想の基盤になっていることは間違いありません。

人権だとか社会、国家について考えるにはうってつけの一冊です。これを読んでから、『社会契約論』に進むのもいいでしょう。

 

マルクスを読むと彼がルソーから影響を受けていることがわかる。また近代以降におけるユートピア論はルソー抜きには語れないと思います。)

『歴史哲学講義』ヘーゲル

 

 

今回はちょっと長いです。文庫だと600pを超えます。

ただヘーゲルなら『精神現象学』や『大論理学』のような主著よりは、弟子たちが彼の講義をまとめた『歴史哲学講義』のほうが読みやすいです。

 

(なりたちは同じ)

抽象的な観念論の話ではなく、歴史の発展について語った本作。

序論において、歴史の発展の理論について語られ、一部から三部までにかけて、中国やインド、ペルシャ、エジプト、ギリシア、ローマ、ゲルマン社会、そしてプロイセンの歴史についてヘーゲルの理論で語りつくします。

この本は批判の多い本です。

西洋中心主義、ナショナリズムについては弁護の余地なく、中心に流れる進歩史観ヘーゲル史観とも呼ばれ、おそらく最も普及した間違った歴史観なのではないでしょうか。

ヘーゲル批判というものは近代、現代哲学の要とってもいいものです。

彼がどんなことを説いたのか、この本を手に取って巨大な思想の断片を味わうのもいいでしょう。

 

共産党宣言マルクス・エンゲルス

最初に断っておくと私は共産主義者ではないです。

ただ哲学・思想ということを踏まえた時、マルクス主義を抜かすことはできないでしょう。

例えばイデオロギーという単語は『ドイツ・イデオロギー』というマルクス・エンゲルスの本が元ネタです。

またマルクス批判という立場で共産党とは異なった立場で、自らの思想を練り上げていった思想家は沢山いますし、また資本主義社会の分析の要として、マルクス(マックスウェーバーマルクス批判という一面もある。)はやっぱり外せないです。

 

マルクス主義者ではないが、マルクス主義の影響が強い。)

 

真面目に読むのが嫌だという人はネタとして読みましょう。

ネットに書き込むときに「万国のプロレタリア団結せよ!」だとか、「ヨーロッパに幽霊が出る」(これ『攻殻機動隊SAC』にも出てくるよね。)だとか、「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。」だとかをもじって書き込んでみよう。

 

ちなみに『共産党宣言』はパンフレットなので短く、分かりやすくまとまっています。岩波文庫でも100pに満たないので簡単に読めるはずです。

しっかりマルクスに取り組みたいという人はこんなサービスがあります。

www.keiyou.jp

なんとマルクス全集のサブスク。体験は無料!年間たったの12000円です。資本論だけなら6000円!

資本主義にまみれたネットフリックスを解約して、ぜひマルクス・エンゲルスオンラインをサブスクライブしましょう!

 

『この人を見よ』ニーチェ

 

この本を一言で言うなら「ニーチェによるニーチェ入門書」です。

学会を追放され、バーゼル大学を去ったニーチェは今でいうフリーライターでした。そしていろんなところを旅をしながら、謎ポエム「深淵を・・・」みたいなものを集めた本、『善悪の彼岸』だとか、難解と言うよりは奇怪な『ツァラトゥストラはかく語りき』だとかを出版していましたが、あまり評判がよくありませんでした。

 

ということで自分で解説してやるぜ、ということで書いたのがこれ『この人を見よ』です。

(”ecce homo”というラテン語はイエスに対して、ピラトが発した言葉である。)

この本読んでみるとわかると思いますが、語り口が常軌を逸しています。

最初の章題。

「なぜわたしはこんなに賢いのか」

そして二番目

「なぜわたしはこんなに利口なのか」

三番目

「なぜわたしはこんなに良い本を書くのか」

 

・・・

 

現在に例えてみましょう。売れている作家がTwitterでこんなこと言うならまあビックマウスなんだなってことで済みます。コムドットみたいなものです。

しかし、あなたはなんとなくある人のブログを訪れた。あまり人気な様子ではない。

大量の記事があって、最新の記事の名前が「わたしはなぜこんなに良い記事を書くのか」だったらどんな印象を持つでしょうか。

わたしはニーチェのこういうところが大好きです。

 

(わたしがもっとも好きなニーチェの本。なんなら思想系でも一二を争うレベルで好き。)

 

 

こんな形でどうでしょうか。

なるべく短く、読みやすいものをまとめてみました。

注意して欲しいのはこれらの本はとっつきやすいだけであって、簡単なものではないということです。

完全に理解するなんていうのは一生かかっても無理だということを念頭に入れて読んでいきましょう。

ただ一般ピーポーに教養人を気取るためならこれらを押さえておけば十分です。似非教養人が読んでもいないのに「無知の知」についてなにかを言ったら、「こいつわかってないな」とマウントをとることができますが、調子にのり過ぎないようにしましょう。

真剣に哲学に取り組んでいる人にとって、私たちのようなスノッブは一番目障りなにわか。

知ったかぶりをしたところで、知識と教養の差でフルボッコにされること間違いなしです。

教養とは知識などではなく。学び続ける姿勢です。

知識を武器として振りかざしてもディスコミュニケーションを生むだけです。

私も不勉強で無教養な人間なので、教養人になれるように、努力を続けようと思います。

 

 

さて西洋哲学編はこれで終わり。

 

次の記事では西洋文学編に入ろうと思います。

気が向いたら見に来てくださいね。

 

それではまた会いましょう。

7月に書いた記事 断念した記事

(こんち!

 

 

 

7月も終わり。

もうわたしがブログを始めてもう2か月になっちゃいました。

 

というわけで今月も書いた記事をなんとなく振り帰ってみよう!!!

 

 

 

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バズ!

話題作なのでバズることを期待して書いた!

狙い通り結構アクセスしてくれる人が多かったです。

 

記事中でも書いてるけど、CGアニメーションの進化にびっくり。その衝撃が少しでも伝わってればOKな記事です。

 

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タダをテーマにしたエロゲー紹介記事。

裏テーマは「タダより高いものはない」。

タダだからと言ってなんとなく足を踏み入れたが最後。

深い沼にはまちゃうこと間違いなし。

自称、「アリジゴク記事」の一つなのです。

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そしてそんなタダのせいでものすごい時間を吸い取られたわたし。

『ワンピース』は筋はともかく、世界観設計はものすごいですね。

いわゆる路地裏で展開されるファンタジーも嫌いじゃないですが、わたしはこういう世界そのものを描いてやるって作品が特に大好きなのです。

 

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丁度この時期『タクシードライバー』を見て結構衝撃を受けたんですよ。

でもふるいなあという一面も

今だったら党代表を決めるだけとは言っても、あんな無防備に街頭演説なんかしないだろうなあって思ったりして。

アメリカの大統領選ってゴージャスというか、派手と言うか、ものすごい大規模なイメージなので。

そうなったのはここ最近なんでしょうか?

 

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ネタ記事ですよ。

冗談の塊。

 

後半の色彩論はマジで適当なので真に受けちゃだめだよ。

 

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地味に一番人気なこの記事。

サイエントロジーって結構やばいのに、日本語で検索しても教団のサイトばっかり出てくるのはまずいよね…

 

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書評だって書こうと思えば書けるっぴゃ。

ただ今の時代誰がそれを読んでくれるでしょうかね。

書評よむ人なんて読書関心がたかいたかいのひとでしょう。

 

 

そういえば芥川賞直木賞発表されてた。

日本文学界隈はもっと現代文学を取り入れたほうがいいと思ったりするんですけどね・・・

 

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好きなものを語るのはムズムズなのです。

言葉って語るだけ擦り切れちゃうものなので。

「愛してる」って言葉だってすでにチープなささやきです。夏目漱石の「月がきれいですね」だってもう文学的なきらめきは失われてますもんね。

「片恋」の「もう死んでもいい」はまだきらきらしてる。

でもこれはロシア語のваша(yours)ってのを理解してないと意味わからんよね。

 

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『ワンピース』と同じで、『うたわれるもの』も筋はともかく世界観に惚れました。

やっぱりファンタジーで重要なには世界観の演出ですよ。

よい作品の条件としてプロットやストーリーなんておもったよりもどうでもいいものなのです。

 

 

というわけで7月でした~。

9記事かあ。さぼっちゃったからなあ。

 

ここから言い訳タイム。

まず例のあれにかかっちゃったんですよ。

ただこれは直接的な理由じゃなくてですね。

家にずっといるということで、じゃあなんかデカい作品やるぞってなって『うたわれるもの』に手を出して。

そしたらすんごく時間取られちゃったんです。

 

もう一つは挫折した記事がいくつかあったということ。

お察しでしょうけど、『うる星やつら』は挫折しました。

 

そしてもう一つ。『輪るピングドラム』の記事も挫折。

私かくときプロットとかあんま考えないんですけど、たまに収拾がつかなくなっちゃうんですよね。

『ピンドラ』はネタバレなしで紹介するのちょっと無理。

せっかく映画やってるから記事出したかったなあ。

後編も結構よかったですよ~。

 

 

さてさて明日から8月。

8月はまた違った切り口で作品紹介しちゃいますよ~

最近は詩にはまってるので、そんな記事が上がるかもしれないです。

まあともかくまた来月会いましょう。

 

それではではでは~)

『令和最新アニメ『うたわれるもの』シリーズのススメ。なろうの原点?』

2022年7月から放送中のTVアニメ『うたわれるもの 二人の白皇』

 

私は毎週楽しみに見ているのだが、『うたわれ』3部作の最終章であるし、なんと28話も放送されるとのことで、いままで『うたわれ』に触れてこなかった人にとってはハードルが高いようにも感じる。

 

 

FGOでもへプバンでもなく、ロスフラを遊んでいる葉っぱ信者のZ世代の代表RYANAとしては、『うたわれるもの』の世界に触れてくれる人が少しでも増えて欲しいと願うばかりである。

 

と言うことで『うたわれるもの』シリーズがどのような物語なのか、魅力はどのようなところにあるのかを解説していこうと思う。

aquaplus.jp

(とはいえ公式で分かりやすくまとめられているので、ちょっと違ったアプローチで解説する。)

 

シリーズ第一作目 

うたわれるもの』 移植版『うたわれるもの 散りゆくものへの子守唄』 

 

apps.apple.com

(ストーリーだけは無料で読めてしまう。)

 

シリーズの原典である『うたわれるもの』は2002年、Leafよりアダルトゲームとして発売された。

内容は皆さんがアダルトゲームときいて想像するような選択肢からヒロインを攻略して物語が分岐していくというノベルゲームのスタイルではなく、ADV+SRPGといったもの。

簡単に言うと読み進めるパートを進めていくと、シミュレーションパートが開始され、そこで勝利するとまた読み進めるパートに移るというものだ。

ゲームパートはあまり育成する必要もなく、難易度も低め。かといって退屈というわけでもないので、ストレスなしに進めることができる。

 

 

とまあゲームの説明はこんなところでストーリーについて。

主人公ハクオロは森で倒れているところを辺境の集落に住むエルルゥ(獣耳と尻尾。この世界の住人は主人公以外全員けもの属性である。)という女の子に拾われるのだが、なんと記憶を失っている。行く当てもないので彼女の家で看病を受けながら住み着き、信頼を得ていく。そしてある時王宮のほうから税の取り立てがやってくる。

集落の人々は不当な取り立てに不満を抱いていたが、ある我慢ならない出来事によって不満が爆発。

ハクオロを中心とした下剋上がここから始まっていくのである。

 

(この娘がエルルゥ)

 

とまあ大きな筋としては下剋上を発端とした戦記物なのだが、『うたわれるもの』シリーズの魅力はそこだけではない。

特筆すべきなのは世界観の作り込みである。

キャラクターは古代のアイヌのような装束をまとっているが、その他にもアイヌ文化から引用された独特の文化が世界観を形作る。

そしてそれはキャラクターの会話の中に数多く散りばめられていて、彼女たちが素朴に信じているだろう神話や言い伝えが日常会話にも数多く登場する。

(自然に織り込まれていて、説明されることがあまりない時もあるため、最初は分かりづらいかもしれません。)

作中に登場する神話の例

「大いなる父(オンヴィタイカヤン)」作中で信仰されている始祖神である。

「森の母」(ヤーナマウナ)慣用的には動物によくなつかれる人を意味するが、本来の意味は動物と会話することができる伝説上の存在。

 

アルルゥかわいい。和風というには変わった衣装。)

 

そしてその神話が物語のクライマックスに深く関わってくる。

ジャンルをあえて言うなら和風ファンタジー戦記SF。様々な要素が絡みあいながらも、すべての要素を完全に収束させ、クライマックスに至る構成は見事である。

ネタバレになるのであまり詳しくは言えないが、『風の谷のナウシカ』や『火の鳥』のような世界観が好きならばきっと楽しめるはずだ。

 

 

そしてそうした世界観、構成の見事さだけでなく、ちゃんと消費者のニーズに答えた楽しい要素もきちんとあるのが『うたわれるもの』シリーズが長寿コンテンツになった秘訣だ。

主人公は記憶を失っているが、頭は非常に冴えるし知識は豊富。最初期では集落の問題をなろう小説のように解決したりする。

キャラクターたちも魅力的でヒロインは年齢も性格もそれぞれバラバラなのできっとお気に入りの娘が見つかるはずである。

 

 

また男性キャラクターもそれぞれ個性が強く、かっこよくも時にユーモラスな一面に惚れることができるだろう。

 

(アニメ版の出来もいい。カットされたところも多いが、動きや声が付くことによってキャラクターがさらに魅力的になっている。特にアルルゥはかわいい。)

 

シリーズ第二、三作目

『偽りの仮面』『二人の白皇』

 

 

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(こちらも無料でストーリーは読める。正直申し訳なくなるレベルのクオリティとクオンティティ。)

 

本作は2015年から2016年にかけて発売されたTVゲームである。

二作目三作目と言っているが、この二つは明確に続きものだ。

ちなみに一作目をやる必要があるかということだが、正直どっちでもいいとは思う。

もちろん一作目を知っていたほうが楽しめる要素も多いし、やっていなければわからない点もなくはないのだが、キャラクターも一新されているし、筋は追えるので『偽りの仮面』から触れて、現在やっている『二人の白皇』を見てもいいだろう。

 

 

『偽りの仮面』『二人の白皇』のストーリー

記憶喪失の男がヒロインに拾われるという要素は前作と同じであるが、舞台が異なる。

前作では島国の中で話が展開していたが、今回は大陸の巨大連邦国家ヤマトを中心に物語が紡がれるのだ。

基本的には二部構成で、一部の『偽りの仮面』』が日常編、二部『二人の白皇』が内戦編という風に考えでもいいかもしれない。

本作の魅力は前作同様、作り込まれた世界観や魅力的なキャラクターという点をそのまま引き継ぎながら、キャラクターやこの世界の国やヒトたちがいかに成長していくかというところを描き切った点にある。

(メインヒロイン)

 

(その名の通り天子である。)

 

『偽り仮面』では茶番とも言えるような、コメディチックなシチュエーションが数多く繰り返されるが、終盤や『二人の白皇』になり戦争が始まると、徐々にシリアスな展開になっていく。

自分の立場や責任をほったらかして遊び惚けるところが『偽りの仮面』ではコメディとして描かれていたのにも関わらず、『二人の白皇』ではそういうわけにもいかなくなる。

そしてそうした成長というテーマはヤマトという国全体のテーマであるということが、終盤明らかになる。

本作もかなり大がかりな仕掛けになっていて、クライマックスまで衝撃の連続だった。

こちらは『風の谷のナウシカ』や『火の鳥』のテーマは受け継ぎつつ、『進撃の巨人』のような要素も含んでいるように思える。

 

 

(『偽りの仮面』のアニメ版は原作ゲームと異なる点が数多くある。プロットはほとんど同じだが、中身はほとんど別物。わたしはアニメから入ったのでアニメも好き。アニメ版『二人の白皇』を見るなら、アニメ版だけでも十分なはずだ。)

 

 

うたわれるもの ロストフラグ』

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ソシャゲで、2019年くらいから配信されている。

最近はあまりソシャゲをやらないので、ソシャゲの勝手はあまりわからないのだが、このゲームは少し変わっているように思える。

まず、ストーリーモードが物語を読むパートとバトルをするパートが完全に分かれている。

私が今まで知っていたソシャゲは、スタミナを消費してストーリーモードをプレイすると、物語が始まって、バトル展開になり、バトルが終わるとまた物語を読むというデザインだった。

しかしロスフラはバトルが物語を解除するためだけにあり、ストーリーから完全に独立している。

こういうデザインが案外普通のものであるかどうかは私にはわからないけれど、確かにバトルとストーリーが渾然一体になったスタイルでは不自然な展開になりがちであるので、いいデザインだと私は思った。

(このようなデザインがもし普通なら、ソシャゲのストーリーでも凝った物がありそう。)

また花札が付いているのは私にとっては高評価だ。

 

 

ストーリーはいつものように記憶喪失の男がヒロインに拾われるというもの。

三部作とはまた違った世界で物語は始まり、遺跡を調べながら自身は何者か、この世界はどのようなものなのかというものを探っていく。

完全新作なので本筋は、他の『うたわれ』シリーズをやっていなくても理解できるはずだ。

ソシャゲのほうが入口として入りやすいという人はここから始めるのもいいのかもしれない。

 

 

(『うたわれるもの』シリーズは声優が豪華。ラジオはそのハチャメチャさから人気だったらしい。)

 

こんな感じでいかがだろか。

『うたわれ』シリーズはゲーム三本+ソシャゲですべてやると200時間近くかかる。

アニメも26話+3話+25話+28話なので合計82話になる。

十二国記』の倍近く、『銀河英雄伝説』よりは短いといったところだが、やはりこうした巨大なコンテンツにしかない世界観の奥深さやキャラクターへの愛着のようなものがある。

 

最近よく言われるファスト娯楽というものを無駄だとは思わないが、たまにはこうした巨大なサーガに触れて、物語世界の広さに身を浸す機会があってもいいだろう。

 

 

一人でも『うたわれ』に触れる人が増えることをねがって。

それでは。